そんなバナナ。「自立する」って、「ちゃんとSOS出せる」ってことだったのね
ついさっき、かがんだら腰がピキってきちゃいました。ギックリ腰の一歩手前みたいなつ。いやあ冷や汗でます。
十数年前、大学生になってから何故かギックリ腰になることが増えました。これ、数日間動けなくなりますよね。昔、夜中まで仕事してて職場でギックリ腰になり、悲惨な夜を過ごしたことを思い出しました。
でも、もっとつらかったのは数年前。奥さんがメンタル不調で寝込んでたので、「よし、自分が子どもにご飯あげるぞ」って時にギックリ腰に。数日間、死にそうになりながら離乳食つくったことがありました。はは、思い出すだけで恐ろしい……。
何とか自力で乗り越えたけど、今振り返ると、「もっと人に頼ればよかったなあ」と思います。
友達とか、近所の人とか。だめなら担当してくれている保健師さんに相談してみるでもよかったし。最近ならベビーシッターもわりかし安いからお願いするのもありだし。
でも、その当時はなかなか出来なかったんですよね、人に頼るのが。なんでだろうなあ?
考えられるとしたら--
①「これぐらい大丈夫」とリスクを低く見積もったから
②(長男として育ったからなのか)自分が責任持ってやらなきゃと力みやすい性格だから
③人に弱いところを見せたくない、頭を下げたくないから
④何でも苦労し耐え忍ぶことが「美学」だと思ってた節があったから
こんなとこでしょうか。要は「一人前の親になるなら、それくらいで泣きべそかくなよ」って思ってたのかも。
でも、考えが変わったのは、あるパパ友の一言。
「そんなに苦労する必要ないよ」
ヘトヘトになっていたある日、ご飯に誘ってくれたパパ友からこう言われ、ものすごく救われました。肩の力が抜けました。
いいんですよ泣きべそかいたって。だって育児大変だもん、マジで。
「開き直りの視点」を獲得した事で、視野が広がりました。
もっと長いスパンで、「親子の持続可能な成長」を見ていこうと。
そうしたら、障害者支援の本なんかから、ヒントをもらうことが増えました。
以前、映画にもなって話題になった「こんな夜更けにバナナかよ」(筋ジストロフィー鹿野さんとボランティアのはなし)の原作本に、こうありました。
自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。
他人を押しのけて「孤立」へといたる自立観ではなく、他人との関わりなくしては成り立たない「共生」を含んだ自立観である。
自立って、何も一人だけで踏ん張るだけがのうじゃない。もっと頼っていいし、頼られていいってことですよね。
福祉の世界で、ヘルプシーキングって言葉があるそうです。援助希求、つまり「助けて」と言葉にして行動すること。この力は追い詰められていくと低下します。SOSがどんどん出せなくなっていくんです。だから早めに、助けてと言っていくことが大事になる、っていう話です。
助けて、を言えるようになってから、まわりの助けてにも敏感になりました。自分に優しくすることで、まわりにも優しくなれる--これ、長引くコロナの影響下でこそ求められる構え、かなあと思いました。