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「安定してない」って魅力なんだよ、という話

幼いころに褒められた記憶がほとんどない。最も身近な評価者であった母は取り立てて厳しい人ではなかったのだが、テストで90点を取れば「あと10点で満点だったね」、習っていたそろばんの大会で2位になれば「あともう少しで1位だったね」という具合に、足りない部分に目を向ける人だったので、幼い私の自尊心を満たしてくれることは少なかった。

そのせいだろうか。向上心と言えば聞こえはいいが、自信の無い自分を変えたいという思いに導かれた、“変化すること”へのプレッシャーが常に私には付きまとっていたように感じる。そして、それは知らず知らずのうちに、他者に対する見方にも反映されていたのではないか、とふと気が付いた。

私が他者に惹かれる時にその他者の中に存在していると認めていたもの。それは可能性、言い換えればいずれ訪れるであろう、変化の芽とでも言うべきものだ。普段、自身への変化のプレッシャーを感じていた私は「変化し続けることができるのだろうか」という不安とも隣り合わせだったのだと思う。それゆえに一緒に過ごす中で相手の変化に気が付いた時、「自分もまだ変われるかもしれない」という勇気をもらえていた気がするのだ。

変化の芽を蒐集するなんて我ながら何だか気持ち悪いのだが、振り返ってみるとそうなので致し方ない。もちろん、圧倒的な運動能力、並外れた知性、そうした才能を持つ人には純粋にすごいなぁと思うし、時には尊敬の念を抱くこともあった。ただ、そういった誰の目にも明らかな才能を持つ人に対して心を惹かれる場合を除けば、“できない”から“できる”へ少しずつでも変化していく姿を見せてくれた人に惹かれていたというのが事実だ。

話は少し変わるのだが、歌手としての松たか子さんが好きだ。もう少し正確に言うと、「初めはキライだったが、好きになった」。ディズニー映画『アナと雪の女王』の日本語吹き替え版での『レット・イット・ゴー』でその歌唱力を高く評価された彼女だが、デビュー当時の歌は正直「女優が片手間で音楽をやっている」と揶揄されても仕方ない感じがしたし、誰より私はそう感じたので好きではなかったのだ。

だが、彼女のデビューシングルが出てから数カ月が経ったある日。ぼんやりと年末の歌番組を観ていた私は驚愕した。そこで歌っていたのは数カ月前に私が酷評した松たか子その人だったのだが、歌唱力はもちろん、佇まいまでが“歌手・松たか子”に変化していたからだ。すでに女優としてもかなり多忙だったはずなのに、たった数カ月で歌手としての力を獲得したその姿に動揺したが、それ以上に変化できる可能性を非常に分かりやすく見せてもらえ、心強さを覚えた(そしてファンになった)。

別に“できない”ことは悪ではないし、それ自体を否定する気はない。ただ、“できない”から“できる”に変わる時には、きっとその人自身の意思と行動が結実したものがそこに存在し、こうした変化を目にする度に「自分もまだ変化できるかもしれない」と思いを新たにすることができた。在り方の先輩とも言える変化を遂げた人々のおかげで、いつの間にか私にとって変化することは後ろ向きな圧力によるものではなく、前向きな取り組みとして行うものになったようだ。

だから私は今日もひとつ小さなチャレンジを重ねる。他の誰でもない、自分自身の変化の可能性を信じて。幼き日の自分に希望を見せてあげられるように、祈りを込めて。

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