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Silent Sky
久しぶりの演劇鑑賞で、ABCホールへ行き、“Silent Sky”という作品を観た。演出家の大河内直子さんの芝居仲間だったという知人から紹介してもらったもの。大河内さんは蜷川幸雄の演出助手をしてからデビューされたそうだ。
出演は、朝海ひかる・高橋由美子・松島庄汰・保坂知寿・竹下景子の皆さん。梅田あたりまで行って生の舞台を観るのは、大竹しのぶ・段田安則・多部未華子が演じたサルトル原作の『出口なし』(サンケイホール)を観て以来。
この作品は、数年前に初演されたアメリカの戯曲だそうだ。女性に参政権がまだなかった時代の米国で、望遠鏡を覗くことも許されない女性天文学者たちが、天文学史に残る偉業をなしたという実話に基づく物語。
登場人物5人だけなので濃密な展開だった。宝塚歌劇や劇団四季のスターだった女優さんたちだが、ほとんど舞い踊るシーンはなく、概して派手な動きは抑えられていた。その分、脚本が光る舞台だったな、と思う。舞台道具なども少なめだったが、一つ一つの質はさすがに高かった。
私は長らく宝塚歌劇や劇団四季も観ていないので、竹下景子・高橋由美子以外の俳優さんは全く知らず。
竹下景子は若いときから好きだったが、10年くらい前かな、劇団燐光群が伊丹のアイホールに来たときに、竹下景子が客演していたのを観に行って以来。
高橋由美子は、たしかアイドル歌手じゃなかったかな、いまこんなに舞台で頑張ってるんや、ふーん、という程度の認識だった。劇中に歌う場面があり、そこはさすがにそつなくこなしていた。
原作者は、ローレン・ガンダーソンという、いま米国で売れっ子の劇作家とのこと。翻訳劇を違和感ないものにした広田敦郎という人もすごいのだろうと思う。
作品の性質から天文学の知識も少し必要になる。主人公のヘンリエッタ・レヴィットは、変光星(セファイド)に注目して、それを2400個も発見し、変光の周期と光度の関係から、天体までの距離を測ることに成功した。これによって、ハッブル(あの望遠鏡のハッブル!)は、多くの銀河を調べ、宇宙の膨張を発見できた。レヴィットは死後、ノーベル賞候補になったという。
この変光星というテーマは私にとっても魅力的だった(なかには連星の場合もあったりして奥が深い)。小学生時代には、父に天体望遠鏡を買ってもらって寒空でもよく星を眺めていた。もちろん小型の安物なので、そんなによく見えないし、見てわからない部分は読書で補っていた。
星の話から入れば、なんにでも到達できるのじゃないかと思うくらい、星が好きだった。実際、星から入って、ギリシャ神話を知り、大学では哲学に関心をもち、古典ギリシャ語までかじることになった。
また、物理はいつも赤点だったが、それでもアインシュタインの相対性理論の入口くらいはかじってみた。ローゼンバーグを知ったときは「そうか、科学を突き詰めると哲学になるのか!」と、とてもおもしろかった。
ただ、この作品のテーマは、天文学などの科学についてではない。女性科学者が当時置かれていた過酷な社会環境を提示する。それに対して葛藤する主人公が自己主張を始め、たたかう仲間を得て、やがて女性をエンパワーする表現に満ちあふれていく。
参政権のデモ行進の話は出てくるが、そういう場面はなく、大学の研究室の「別室」を中心として、4人の女性の台詞が躍動する物語である。
しかし、昔話とはいえ、天文学のわかる女性が、大学教授の家政婦をしながら研究助手をしていた(竹下景子の役)とか、女性はいくら優秀でも研究室には入れず、単純作業や計算ばかりさせられていたとは、その冷遇ぶりには呆れる。
でも、自分の大学時代も理工系学部の女子学生は汲々としていた。夜中に部室で泊っていたら、実験の合間を抜けてよく研究室や教授に対するグチをこぼしに来た。今もまだまだだから、リケジョなどという言葉ができてしまう。
そういう意味では、「社会派」にもカテゴライズできる作品だが、私はそうは言いたくない。どうも私は、社会派の単純なお話がキライだ。
映画でいうと、古くは『ノーマ・レイ』とか、最近では『わたしは、ダニエル・ブレイク』とか、どれもよい作品なんだけど、楽天的に「社会を変革しよう!」となるところがついていけない。そんなに簡単に世の中は変わらないし、社会運動には陥穽もいろいろあるからだ。
その点、この作品には登場人物の葛藤が描かれている。主人公は悩みながら成長する。そういうところに真実がある、と思う。
4人の女性のうち、3人は科学者だが、1人は主人公の妹で、普通に結婚して子どもをもつ、田舎の娘である。科学を志して、都会の大学へ出て行き、身を粉にして働く姉のことが、当然、初めは理解できない。それでも、彼女は姉思いで、やがてサポーターに変わっていく。そういうところも、物語としては秀逸な点だと思う。
そして、出てくる唯一の男性は、コミカルなところも表現し、トリックスターのような役割で、要所要所でピリリと利いておもしろい。
とにかく、主人公のレヴィットは、ものすごい苦労をして偉大な発見をして早世してしまったわけだが、副次的に女性科学者の地位向上を訴える象徴にもなりえた、ということだ。
思い出されるのは、日本で女性が参政権を得たのは戦後だ、と知ったときのことだ。何年生で習ったか忘れたが、これは私にとっては驚きだった。いま普通にケロッと当然のようにみんな考えているけど、え、まだ30年くらいしか経ってないの?? という気持ちだった。
そこで、専業主婦の母親を見て、そうなのか、だからこういう状態なのかと(笑)。当時、母を見ていて常々、人づきあいが苦手で社会性がない、などと思っていた(もちろんその後、人助け精神や辛抱強さという母親の長所も理解したことは付記しておく)。そのときは、だから、日本の民主主義は遅れてるはずだよな…、と納得(?)して、自分は「職業婦人」(苦笑)と結婚しようと決心した。(それは実現できたものの、共働きの子育てが想像を絶する苦境だったことは、よそで書いているとおり。)
私がこうして驚いたときから50年も経ち、作品の主人公が生きた時代からいえば100年近く経った、いまの世界(特に日本の状況)を鑑みると、なんだか主人公に申し訳ない…。
主人公の存在すら私は知らなかったので、たたかうリケジョ(こういう言葉は早くなくなればいいが)の先陣を切った女性として、記憶にとどめておこう。