「余力のある側」が相手の立場に立ってみる
仁藤夢乃さんのSNS投稿について語る機会があった。シューイチという番組が男性だけで開発した生理用ショーツを紹介したり生理の貧困について話したりした模様。これに関連した投稿だった。以下少し長めに引用。
日テレのシューイチ、生理の貧困に絡めて何故か男性4人が女性を入れずに開発した生理用ショーツを紹介。(画像、最後の2枚は私のオススメの)
女の痛みも、アイディアも、努力も成果も、男たちに一瞬で奪われる。よくある光景だ。
女の体や生理、女性の貧困も男たちのビジネスに利用される。「女のことを考えてる俺」「女のためにやってやったぜ」とドヤるキモさ。
別の企業では女性たちが吸水ショーツの開発をしているのに、男たちがそこでドヤ顔することで、女性たちから多くのものを奪う。とりあえずそこ退いて。
この前、子ども支援団体の男性が、車に企業から寄付されたたくさんの生理用品を積み込み、困っている女性たちに届けるとSNSに投稿していた。
その投稿の画像が、車に積まれた生理用品の前でピースする二人のおじさん。これはきもい。女性支援してる俺!女性のために用意してやったぜ!感。ドヤらないで😩
Colaboでは活動を始めて10年、生理用品を買えない中高生などに自由に持ち帰ってもらえるようにしてきた。
被災地では若年女性だけが物品を選べる場を作り、手渡ししてきた。避難所のリーダーが男性ばかりでナプキンを欲しいと言えなかったように、男たちの活動になってしまえば、女性に届かない。
女がずっと取り組んだり、発言続けても無視されたり、軽く扱われるのに、
男たちの問題(男もつらいよ的な)や、男たちの取り組みになった途端に注目されて、男の苦しみや成果にすり替えられる。そして女の苦しみや努力は無かったことにされる。
私は彼女の投稿を一読しても、また、何度読んでも、過激だとか過剰だとか思わず、ふむふむなるほどこういう風に分析できるのか、言語化能力が高くてすばらしいな、などという感想を持った。そしてきもいとか、そこをどいてとか、感情が乗ってる部分は現場の生の声としての勢いを感じ、むしろ切実さとしてささった。
しかし、周りの声を聞いてみると、「こういう言い方だと言われた方はどうすればいいかわからない」、「この人と話したいと思えない」、「内容はいいのに言い方が過激すぎて損してる」などという感想もけっこうあるようだ。男女問わず。これが多勢なのかもしれない。
振り返ってよくよく考えてみると、自分が上記のような考え方をするようになったのはたぶん実はめちゃくちゃ最近で、それ以前は疑いなくこの方々の考え方の側にいたのだろうなと思うに至った。だとすれば、なんで私がそんな風に変わったのか、ちょっと分析してみてもよいのではないかと思ったので、それを書いておこうと思う。
批判的声の根底にあるもの
批判的声の根底にある感覚は、
せっかく男性がジェンダー問題に興味をもって取り組んでくれてるのに、そんなに批判したらだめだよ、やる気なくなっちゃうよ。この機運を大切にしなきゃ、生かさなきゃ!
ということなのかなと思った。そしてわかる。私も多分そうだった。しかし、そこで思考停止してよいのだろうか。
事前情報についてゼロイチの差は大きい
私はもともとこの生理用ショーツの存在は知っていて、そして「男性4人で開発した生理用ショーツ」のどこが魅力的なのか、なぜそこをフィーチャーしてるのか全然わからなかった。経験してない人が開発するより女性が開発した方を使いたくない?と素朴に思っていた。
こんな疑問を持っていた私に一つの考え方を教えてくれたのが仁藤さんの投稿だった。彼女の投稿を読んで「ジェンダー問題に取り組む男性」というだけで、内容にかかわらず、価値があるとされてしまう現象が起きているのかもしれない。そうだとしたら、それはよろしくない、いやもっといえばウォッシュという弊害じゃないか。だとしたら、消費者として、ちゃんと監視していかなければならない、と思った。
あと彼らの商品は後発品だから開発コストが安く、先行品より低価格にできるかもしれない(女性起業家がすでに開発済みの商品だ)。また、そうじゃなくても、こうやってテレビで取り上げられることで認知度が上がってこの商品の売上が伸びたら、先行品のシェアが減少するわけで、そうだとしたらフェムテックに真摯に取り組んできた女性たちの努力を一気にかっさらっていってるだけだよなとか。ジェンダー問題を、ちょっとリスキーだけどブルーオーシャンと見てるのでは?という疑念すら生じる。
私が仁藤さんの投稿を読んで、拒否感ではなく(拒否感など一切感じなかった)、こうやって自分で少し考えることができたのは、自分自身が、イチにも満たないかもしれないけどゼロではない知識・意識を持っていたからだと思う。男性が開発した生理用ショーツという商品への素朴な疑問、そして、仁藤さんが若い女性のために頑張っていること、そして一人では外出できなくなるほどのネットミソジニーの被害を受けているということである。その程度の知識しかなかったけれど、これがあるだけで彼女の投稿への受け取りは全然違う。何も前知識がないと、内容が届く前に表面を覆っている言葉の強さに打ちのめされてしまうのかもしれないけど、ちょっとだけ知っているだけでこんなにも受け取り方が変わるのかと思うと、私もまた、そのゼロイチの差を広めなければいけないなと思った。
余力のある側ができること
自分の考え方が正しいか正しくないかということではなく、こういった視点を持てるようになること、それが変化を生むと思う。そのためには余力がある我々(仁藤さんのように厳しい現実と戦わずに過ごせてしまっている多くの我々)が一歩進まなければならない。
「余力のある側」はどうすればよいか?まずは仁藤さんの投稿を「感情的なノイズ」としてあしらうのではなく、ジェンダー問題に全身全霊で取り組んできた先人の声として真摯に受け止めること、彼女の言っている内容を理解しようと努めることだと思う。内容が入ってこないのは彼女の言い方のせいだというのが一方にある。しかし、そこには「せっかくこちらが歩み寄ろうとしてあげてるのに」というような気持ちが根底にないだろうか。しかし、我々は日々彼女らが直面している問題に直面せずに生きていて、その問題について余力がある。そうだとすれば、余力を使って、「歩み寄ろうとしてあげているのに」と無意識的に感じてしまっている自分を自覚して認め、そこで思考停止せずに、彼女がどういう活動をしている人か5分調べてみたり、会議の議題にあげてみたり、とにかくこの声を無視せずにコミットしてみること。
そうすれば、彼らの取組は一見ジェンダー平等に取り組んでいるように見えて、結果的にむしろ踏みにじってるかもしれないな、という可能性の存在に気づくことができるはず。可能性の存在に気づいたうえで、その次の段階として、活動を見直したり改善したりすべきだと思うか、そういう面もあるけどメリットの方が大きいからそのままの活動を続けるべきと思うか、といった見解の相違が出てくるべきだと思う。とにかく門前払いしたり、なかったことにしたりしていては社会は変わらない。
ということで、一見あたりが強い言い回しについても、門前払いせず、一歩進んで考えること、思考を一巡させることが大事だと思う。余力があるのだから余力のある方が一歩踏み出すべし。
余談ですが、自分たちの活動に対して現場から発せられるこういった声を聞いて、「ああそうか」と思って自分たちの取り組みに反映させて進化していくのか、それとも「あーはいはい、うるさい」と思って聞く耳もたないのか。そこがウォッシュとの分水嶺かもしれないなと思う。
第三者はほんとに客観的・中立的なのだろうか?
仁藤さんの「投稿内容」については元ネタの番組見てないから判断できないけど、でもこの「表現方法」はよくないよね。「内容」を判断する能力は自分にはないので触れません、と一見謙虚で公平そうな立場を表明した上で、内容わからないにしても「表現方法」自体としていかがなものかという面があるので「表現方法」=伝え方を検討してみよう、という問題の立て方はなんとなく一見中立的に見えなくもない。
しかし、それって実は、全然公平でも中立的でもなんでもない。外からジャッジするだけの人は、この問題について当事者性を持ってない=心に余力があるのだから、仁藤さんがどんな人か、どんな活動を行ってるか、ちょっとでも調べればいい。そこに踏み込むことが中立性を欠いてしまう、一方に加担してしまう(だからよくない)というような、なぞの、でもなんとなく確かに存在しているハードルがあるように思う。しかし、仁藤さんがどのような活動をしているのか、ということに踏み込まないことは中立ではないということに気づくべきだ。なんとなく中立でありたい、色がつきたくない、というような感覚、わかる。けど、現状維持は中立ではないし、知らずにいることも中立ではない。そして、一歩だけ踏み込んでみれば見える景色が変わる。まさにゼロイチの差が大きいのだ。知らずにすむ人(多数派)が知ろうとすることで社会は動くはず。