【ネタバレについて】ねえ、この話のラストはね…。
先日ゼミの顔合わせがあり、初めて3年生と話すことになった。
ただ、世間で有用性が議論されている(これについては僕が以前書いたnoteを読んでもらえると全く見当違いということわかる!)哲学専門のゼミを選ぶだけあって世に溢れる人が言うような「癖が強い!」なんてレベルではないほどのひねくれ者の集まり。正直話をしても聞いても楽しかった。
そこで、一つ議題に上がったものがある。
ネタバレはありか、なしか?
これが話題に上がったとき(しまった!)と内心思ってしまった。これについては下手したら人死がでることは読者の皆様も想像に難くないだろう。某少年探偵が映画を発表するたびに、犯人のネタバレを行う悪漢が現れては世間を賑わせている。
ここでこのnoteの趣旨について先に表明したいと思う。ネタバレ(特に映像作品)についてネタバレ反対派の意見を取り上げ、僕のネタバレに対する考察をするというものだ。
まず最初に宣言しておく。僕はネタバレOKな人だ。むしろアニメを見ていても、映画を見ていても途中で結末が気になり自ら進んでネタバレされにいく。ネタバレ批判派閥はこれを聞いて自殺行為に思うかもしれない。安心してほしい。そんな事はない。
前回のゼミ顔合わせで、自分自身を作品に投影しているのでネタバレされる事は現実世界に引き戻されることだという意見がでた。
作品内に自分を投影することはわかる。没入感というものだ。では、なぜネタバレで現実世界に引き戻されるのか。ネタバレとは、作品の中で何が起こるかわからない人に対して、確定した未来を知らせることになる。ここから、ネタバレとは現実世界における予言のようなものなのではないかと考えることもできる。
現実世界で自分の身に何が起こるか想像する事は難しい。ネタバレを嫌う人は、そのリアリティをフィクションの世界にも求めているのではないだろうか。予測可能な世界というものは現実的にあり得ないので、ネタバレされた作品は予測可能なものとなる。「予測不可能」で繋がっていた現実世界とフィクションがネタバレによって断絶され自分はただの傍観者となってしまう。ネタバレを嫌う人たち、特に作品に没入感を求める人たちにとって現実世界とフィクションの境を強調され、「そこにあなたはいない」とされることは楽しみを奪われることになる。
※ここから現実世界の予言というものについて考えることもできそうだが、今日は眠いので別のnoteで考えてみようと思う。
ここまでを振り返ってみると、ネタバレは没入感を楽しむ人にとっては嫌なものということ。楽しみを奪っているということが特にいただけない。僕の場合は、作品の映像技術や細かい伏線の張り巡らせ方などの現実世界の傍観者として楽しんでいる節がある。なので、ネタバレに嫌悪感は感じない。
だが、自己投影したくなるような作品に出会ったとき、こんなことされたらいくら温厚な僕でも何をするかわからない。
今回考えたことは、ネタバレは没入感という楽しみ方を奪う行為であること。きっと他にもネタバレが起こす現象はあると思う。それについては、これからもう少し考えてみるつもりだ。
ネタバレに寛容、なんなら自分からされにいくという珍しい?タイプの僕だが、今回考えたことでネタバレがどうして嫌悪されるのか少しわかった気がする。作品の楽しみ方は人それぞれではあるので、決して人の楽しみ方を奪うようなことだけはしないでいきたいな、という分かったような分からないような感じで今日は締めようと思います。ここまで読んでくれた人、本当にありがとうございました!!
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