SNSから離れて知る、他人の目線を気にするわたし
ホーム画面いっぱいにアプリを入れているわたしのiPhoneが、ついに「これ以上もう入りません」、と音を上げた。
ストレージがいっぱいです、と。
仕方がないので写真を消し、動画を消し(ダンス関連のものがいっぱいある)、ホーム画面いっぱいにあったアプリを整理し(消したけど多いと思う)、どうにか4GBを残すことができた。
消したアプリの中には、毎日開いていたFacebookも含まれる。
消したらあっさり見なくなった。
ブラウザで開くこともあるけれど、何せそれだと見づらいので、長く見ることが格段に減った。
これは良いきっかけであると思う。
わたしは今年は随筆のごとく文字を書き散らし、本を読み、荒れ放題の家を片付けるのだから。
実は最近SNSに疲れてきていたところだった。
ホーム画面に流れる友人知人の投稿は、真剣だったり力が抜けていたり、仕事のことだったり遊びのことだったり、ばらばらのひとが投稿しているのだから書いてみれば当たり前ではあるけれど、そこには一貫性がなく見ていて疲れるのだ。
では読まなければいい、触れなければいいとは思うものの、嫌な中毒性のあるのがSNSの怖いところで、荒療治でもしなければ意思の弱いわたしはすぐに手を伸ばしてしまう。
そんなわけで、Facebookアプリの消去はとっても良い荒療治となったわけである。
心配ごとや悩みごと、鬱の不調や身体の不調が重なっていたから、ちょうどよかったのかもしれない。
ひとの気持ちを考えることは、わたしの長所であり短所でもある。
友人知人、つまり他人の思考や意見、つぶやきのオンパレードであるSNSに自ら身を投じたら疲れるのも当然だ、と我ながら若干呆れてしまう。
いつからわたしはこんなに他人の気持ちや目線を意識してしまうようになったのだろう。
いつから、と書きながら少し思い当たる話がある。
でも、せっかくなので思い当たる過去の話ではなくて、未来をどうしたいかを考えようと思う。
過去に原因を見つけて、そこに理由を結び付けてしまうのは、時に思考を進めることを妨げる。
他人の気持ちや目線を未来永劫気にしながら生きていきたいのかとこころに問えば、わたしのこころは「ひとの気持ちはともかく、目線は気にしたくはないかな…」という。
答えをこんなにするっと書けたのだから、わたしは他人の目線を気にしたくはないと強い意志を持って思っているということ。
では、他人の目線を気にしている今、気にしないために(もしくは気にしすぎないために)、わたしにできることは何があるだろう。
と、ここまで書いたところでちょうどお昼休みが終わってしまうので、他人の目線を気にしすぎないために、自分にできることについては夜にでもまた考えてみようと思う。
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