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スタァライトの誕生 〜哲学・神話学から読み解く劇ス〜

漁夫
https://twitter.com/FishermanMac25
fisherman.mac25@gmail.com


1.はじめに

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下「劇ス」と称する)で新たに演じられるレヴューには、われわれが見慣れた夏の星祭りの舞台装置は登場しない。だが、『戯曲 スタァライト』のモチーフは、様々に形を変えながら劇スのレヴューの中にも存在している。たとえば塔は、「怨みのレヴュー」では五重塔、「競演のレヴュー」では聖火台、「狩りのレヴュー」では大道具の星摘みの塔、「魂のレヴュー」では十字架の姿で登場する。これは、『戯曲 スタァライト』が神話のように本質的真理をはらんだ物語であるために、その要素がいたるところに現れているのだと考えられる。『戯曲 スタァライト』が神話的であるならば、その成立背景にも神話と同様に、さらに高次のストーリーや、本質的で普遍的な大いなる何かが存在しており、数多くのバリエーションはそこから派生しているはずだ。この原=物語を「スタァライトの誕生」と呼称しよう。

 原=物語の存在を想定すれば、劇中の小道具の意味や、愛城華恋と神楽ひかりに宿る「フローラとしての運命」「クレールとしての運命」などの要素を、スタァライトの誕生理由や全人類共通のさだめといった巨大な議論へ繋げられる。この、時空間を飛び越える遠近法のような表現(*1)を、ワイドスクリーンバロックの手法と言うこともできよう。

 本論文の目的は、賑やかなワイ(ル)ドスクリーンバロックである劇スと『戯曲 スタァライト』を哲学・神話学・舞台芸術論から読解し、その背景にある原=物語が示す人類のさだめと、愛城華恋という個人の成長について考えることである。

 TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下「TV版」と称する)でも何度も述べられたように、『戯曲 スタァライト』は明白に悲劇である。そこで、本稿はニーチェの著書『悲劇の誕生』を参考にして議論を進める。

 哲学者で古典文献学者のニーチェは『悲劇の誕生』の中で、ギリシャ悲劇は対立する二種類の芸術性を共存させた優れた芸術だと主張している。彼はこの世の芸術性を二つに分類し、芸術の神の名を借りて夢や予言をつかさどる光明神アポロン的なものと、陶酔や共感をもたらす酒神ディオニュソス的なものと呼んだ(*2)。アポロン的なものは、造形美術に代表される芸術性、ディオニュソス的なものは、音楽芸術に代表される芸術性である。古代ギリシャ人は、過酷な自然世界で生きる苦悩に抗うため、集合的な「ギリシャ的意志」によってアポロン的芸術とディオニュソス的芸術の両者を結合させ、人生の慰めとしてのアッティカ悲劇(ギリシャ悲劇)を生み出したのだとニーチェは考えた(*3)。

 ニーチェの思想に対して必ずしも厳密ではないが、わかりやすさのために、二つの神が象徴するイメージを言語化しておく。アポロン的なものは、知性的・実践的・建設的・外向的で秩序があり健全な属性である。ディオニュソス的なものは、感情的・神秘的・狂騒的・内向的で混沌とした突飛な属性である。さらに言い換えれば、夢のように精緻なものを創造する力がアポロン的衝動であり、直感で枷を壊す力がディオニュソス的衝動である。

 酒神ディオニュソスの名からは、大場ななの「強いお酒を飲んだみたい」というセリフが連想される。劇スの幕開けレヴューである「皆殺しのレヴュー」を演じた大場ななのこのセリフは、彼女もギリシャ人と同様のディオニュソス的な衝動の中にいること、そして人間心理や原=物語は古代から現代まで共通性があることを示している。


*1 魂のレヴューで、天堂真矢と西條クロディーヌが時代も場所も越えて様々なライバル関係を演じるシーンはその代表である。

*2 F.ニーチェ『悲劇の誕生』(ニーチェ全集:第1期第1巻)29-43頁、浅井真男ほか訳、1979年、白水社。以下、この本を『悲劇の誕生』と表記する。

*3 『悲劇の誕生』62-64頁。

2.悲劇についてのニーチェの考え

 ギリシャ悲劇の起源は、古代ギリシャのディオニュソス祭(酒神祭)だとされる(*4)。そこでは市民が酒と音楽に陶酔し放埓に振る舞うことが許されていた。その陶酔は陽気なようであるが、「主体的なものが消滅して忘我状態に化する」(*5)という点で、悲劇の主人公が不幸を被る姿を見た観客の反応と同種だとニーチェは推論している。

 また、ギリシャ市民にとってディオニュソス祭は、自分たちの内面には都市国家成立以前の時代と同じ野蛮さがあると自覚する場でもあった(*6)。都市国家以前の人々は過酷な自然の中で暮らし、生きるために全力を尽くさねばならなかった。その過酷さは、神話においては古き巨人ティターン族の暴力として語られている(*7)。

 ニーチェは、ギリシャ人の自然への苦悩が表れた古い伝説として、ディオニュソスの従者である精霊セイレノスと、それを捕らえたミダス王の問答を紹介している。

王は人間にとってもっとも良く、もっともすばらしいものは何かと問うた。あのダイモン(セイレノス)は身動きもせずに頑なに沈黙を守っていたが、王に強制されて、ついに大笑いをしながら突如として次のような言葉を叫んだ、《みじめなかげろうの類よ、偶然と労苦の子らよ、聞いてもおまえのためにはまるっきり役にも立たぬことを、なぜ俺に無理に言わせるのだ? 最善のことは、おまえにはまったく手の届かぬこと、つまり生まれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。だがおまえにとって次善のことは早く死ぬことだ》

『悲劇の誕生』40頁。

 つまり、どうせ人生の期待値は負なのだから命は生まれるべきでないし、生まれてしまったなら次善策として早く死ぬべきだという悲観主義である。このセイレノスの知恵への誘惑は常に古代人を悩ませてきた、とニーチェは考えた。そして悲観主義に抗うために、ギリシャ人たちは、ティターンより有能な、雲の上に住んでいるオリュンポスの神々を想像し、彼らが助けてくれると信じる必要があったのである。神話や信仰は、それが仮象であろうと妄想にすぎなかろうと、ギリシャに限らずほぼ全ての古代文明で人間に前向きなモチベーション(動機付け)を与えてくれた。それなしには、じきに悲観主義や快楽主義に溺れて悪行を働き、偉大なるものを何一つも残せないまま、ほかの文明によって滅ぼされたであろう。生存のために神話を練り上げた造形力は、まさにアポロン的な力である。ニーチェはこれを、ホメロスの時代において頂点に達した「アポロン的幻想の(ティターンに対する)完全勝利」と呼ぶ(*8)。ニーチェは個人の心には倫理的な部分と欲望を追う部分があると想定しており、倫理的な部分が欲望的な部分にアポロン的幻想を言い聞かせることで、自分に良いモチベーションを持たせられると考えた。これは、プラトンがその著書『国家』の中で「高貴な嘘」と呼んだ、国家の統治や人々の協力のために指導者が流布する物語とも仕組みが近い(*9)。よって本論文では「高貴な嘘」という表現も借りることとしよう。

 アポロン的幻想や高貴な嘘のおかげで人の内面には秩序と枷が生まれる。それにより、肉体的快楽をはじめとした欲望に流されず、自分が意志した目標を目指してアポロンの矢の如くにひたすら進めるようになり、悲観的なセイレノスの知恵から自らを守ることができた。この働きに必要な節度と自己認識、すなわち「度を越すなかれ」と「汝自身を知れ」はアポロン的幻想に従う人々にとってもっとも重要な信条となったのである(*10)。

 だが、人間はアポロン的にのみ生きられる存在ではない。本章冒頭で述べたように、ディオニュソス祭(酒神祭)などの際に、ギリシャ市民は自分たちの中にある野蛮さや、ディオニュソス的なものを自覚せずにはいられなかった。そして、ディオニュソス的になった人間は、アポロン的幻想に従う動機を失ってしまう。これをニーチェはシェイクスピアの悲劇『ハムレット』と関連させて説明している。

現存在の通常の制約と限界の破棄を伴うディオニュソス的状態の恍惚境はそれの持続するあいだは一種の忘れ川めいた要素を含んでいるのであって、そのなかでは過去において個人的に体験した一切のものは沈み去るのである。こうしてこの忘却という断絶によって、日常的な現実の世界とディオニュソス的な現実の世界とは分離される。しかし日常的な現実が再び意識されるやいなや、それは嘔(は)き気をもってそれと感じられる。こういう状態の成果は一種の禁欲的な、意志否定の気分である。この意味でディオニュソス的人間はハムレットに似ている。両者はひとたび諸事物の本質を真に一瞥してしまって、認識したのであって、これが彼らに、行動に対する嘔き気を覚えさせるのである。なぜならば、彼らの行動は諸事物の永遠の本質にいささかも変更を加ええないのであって、彼らは、ばらばらになった世界を再組織するのが自分たちの任務だなどということを、滑稽だと思うか、屈辱的だと思うか、どちらかだからである。認識は行動を殺す。行動を起こすためには、幻覚による目隠しが必要である——これがハムレットの教えであり、(……)真の認識、怖るべき真実の洞察が、ハムレットの場合にもディオニュソス的な人間の場合にも同様に、行動へ駆り立てるあらゆる動機を圧倒するのである。

『悲劇の誕生』63-64頁。

 ニーチェの言う「ディオニュソス的状態の恍惚境」とは、酒や音楽その他の理由によるいわゆるトランス状態を指す。その状態の人間は常識や心の枷を忘れ、感覚の麻痺や他者との一体感、無限の可能性や万能感(力の過剰)(*11)を覚え、時には理屈ではたどり着けない本質的な真理(根源的一者)に触れる(*12)――少なくとも本人はそのつもりになる。そのような恍惚を体験すると、日常での「生得的本性」(*13)に限定された可能性だとか、知性的で健全な節度や自己認識の追求といったもの、つまりアポロン的幻想が嘔き気を覚えるほど馬鹿馬鹿しく感じるようになってしまうのだ。

 しかし、悲観主義や無力感に抗い、日常を前向きに生きるためには、アポロン的幻想や知性が必要であることに変わりはない。そこで古代ギリシャの人々の集合的な意思は、ディオニュソス祭で市民を陶酔させていたサテュロス合唱団の酒神讃歌に、アポロン的な芸術性を導入したのだ。触れてしまった真理の怖ろしさも、アポロン的幻想に従うことの愚かしさも、芸術にすることで和らげたのである。その芸術への変換のことを、ニーチェは「怖るべきものの芸術的制約として崇高」であり「愚かしいものの嘔吐感の芸術的放出として喜劇的」にすることができたと評価している(*14)。

 この出し物はやがて劇へ発展し、サテュロス合唱団は、劇のコロスや登場人物となった。アポロン的な語りや演出を用いて非日常的体験をテーマとして取り上げ、観客をディオニュソス的状態に近づかせ、真理への恐怖や無力感を順序よく排出することができた。こうして、ディオニュソス的芸術性とアポロン的芸術性を兼ね備え、人間をセイレノスの知恵と絶望から救う、ギリシャ悲劇が完成した。人間やこの世界を救済しうる唯一のもの、それが芸術なのである。「なぜならば、ただ美学的現象としてのみ、現存在と世界は永遠に是認されているからである(*15)。」


*4 『悲劇の誕生』36頁。

*5 『悲劇の誕生』33頁。

*6 『悲劇の誕生』46頁。

*7 ルネ・マルタン監修『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』131頁、松村一男訳、1997年、原書房。

*8 『悲劇の誕生』41-42頁。

*9 プラトン『国家(上)』278頁、藤沢令夫訳、1979年、岩波書店。F.ニーチェ『善悪の彼岸・道徳の譜系』(ニーチェ全集第10巻)38-41頁、信太正三訳、1967年、理想社。

*10 『悲劇の誕生』45頁。

*11 『悲劇の誕生』78-79頁。

*12 『悲劇の誕生』33-34頁。

*13 アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル哲学入門——『精神現象学』を読む』302-305頁、上妻精ほか訳、1987年、国文社。

*14 『悲劇の誕生』64頁。

*15 『悲劇の誕生』53頁。

3.フローラ:神話の主人公

 『戯曲 スタァライト』はフローラの落下とクレールの幽閉という災厄で終わる悲劇である。本章では、ここまでの考察と劇スの内容を合わせることで、彼女たちの災厄が何を暗示しているのかを読み解いていく。

 まず、『戯曲 スタァライト』に、主人公たちのアポロン的な衝動とディオニュソス的な衝動が描かれていることを確認する。フローラとクレールは、忘れ川の彼岸へ喪われたクレールの記憶が、星摘みによって取り戻せると信じている。これは合理的な計画ではなく、二人で見上げた星への陶酔で知性を麻痺させたからこそ抱ける奇跡への期待であり、ディオニュソス的衝動の表現だと見ることができる。一方、TV版第12話で神楽ひかりがフローラとクレールの二役を兼ねて演じた「星積み」は、石を積み重ねる建設的作業である。これは一歩一歩塔を登る歩みのような、造形や意思の貫きというアポロン的衝動の表現だと言える。よって、『戯曲 スタァライト』で重要な星と塔は、それぞれディオニュソス的衝動とアポロン的衝動の象徴なのである。

 ところで、星と塔が象徴的に扱われるものとしては、タロットの大アルカナが有名である。大アルカナ22枚には番号が付いており、0の愚者が21の世界へ向かい成長する過程を表しているという解釈が一般的である。愚者の旅路は16で塔に登り、直後の17で星に触れ、最後には『舞台少女心得』のように世界が待っているなど、本作とタロットには関連が見られる。そして、物語の主人公であり、Possibility of Puberty(思春期の可能性)という名の武器を持ち、無謀な目標を目指す愛城華恋を大アルカナに当てはめるならば、愚かゆえに無限の可能性を持つ愚者がふさわしいだろう(*16)。

 ここで劇スに視線を向ける。フローラがクレールの記憶回復のために星摘みを提案したように、運命の約束は愛城華恋が言い出したものだったことが回想シーンで判明する。二人で見た星のキラめきを掴むため、いつか二人で『戯曲 スタァライト』を演じようと愛城華恋が神楽ひかりを誘ったことで、困難な旅路が始まったのだ。このあまりに遥か遠い目標を目指す衝動は、合理的ではないながらも(*17)、完全な不条理でもない。古代人の紡いだ神話の英雄たちも、いかなる厳しい状況でも「困難を乗り越えて星の世界へ(Per aspera ad astra)」(*18)と信じ、事態を神々の試練だと楽観的に考えた。それは決して古代人がリスクを過小評価したり、途方もない楽観を持っていたりしていたからではなく、セイレノスの知恵を熟知していたからこそ、その知恵からくる絶望に抗う神話を内面世界に作らなければならなかったのである。

 このような神話の内容からは、人間は自意識を得たと同時に、憧れる理想に近づく過程を善とし、堕落を悪とする善悪観たことが推測できる。過酷な自然の暴力を認識できるようになった人類は、生きるモチベーションを維持するために善悪観を持つ必要があったのだろう(図1)。

図1 自意識と共に生まれた善悪観(筆者が作成)
原意識は現に有る実存(実線の円)しか感知できないが、自意識は有りえる無数の可能的存在(破線の円)を想像できる。ここでいう星とは理想を投影した高みのことであり、「星摘み」はキラめく可能性を追う善い行いに見える。しかし、「弱肉強食」「優勝劣敗」など生存競争の原則から見ると、その善行には他者を犠牲にする罪が隠れている。

 星に象徴される理想を追って善の道を歩み、悪を遠ざけようとすることが、自意識を持った人間の本能だと言える。だが、ティターンたる自然の暴力にさらされて余裕のない世界で星摘みを目指すことは、己の理想のため他者のキラめきや資源を奪い、困窮による悪行をさせることと同然である(*19)。いわば、人間はみな、自然の暴力を認識したことによる絶望に抗うために、自分が他者にとっての自然の暴力になることを選んだ、傲慢で罪深い存在なのである。これはアブラハムの宗教の楽園追放の神話で、エデンの果実がもたらした禁断の知識により原罪を背負ったと語られる内容と等しい(*20)。そして人々はその罪を赦されたいと願うが、奇跡でも起きなければ不可能だとわかっている。そんな人々の声がコロス的な合唱としてセリフになったのが、「星摘みは罪の赦し、星摘みは夜の奇跡」なのだ。

 以上のように、フローラとクレールを陶酔させたディオニュソス的衝動、すなわち彼女たちを導いた星には、何かを犠牲に理想へ向かうという傲慢さを促す罪の星の側面もあったのである。

 そして、星だけでなくアポロン的な塔もまた、別種の傲慢と罪の側面を持つと考えることができる。塔が意味するのは、視野狭窄や自惚れに類する傲慢さである。塔は『創世記』のバベルの塔の神話(*21)では人間の傲慢さを示しており、大アルカナでは傲慢がもたらす災い(*22)を象徴する。高い塔は世界から孤立しているがゆえに、古代では監獄として使われたこともある(*23)。これら塔の不吉さはTV版の頃から、第99回聖翔祭で愛城華恋が傲慢の女神を演じたことや、星摘みの塔へのクレールの幽閉として暗示されてきたが、劇スではより強くスポットが当てられている。

 劇スでは、無限に広がる世界へ旅をしていた主人公=愛城華恋=フローラ=愚者=舞台少女たちが、自分の最終目的地はTV 版で到達した塔の頂だと思い込んだために、舞台少女の死という災厄に襲われる。上下反転して棺のように見える塔や、それらへ警鐘を鳴らす「今こそ塔を降りる時」というセリフも塔の罪と災厄を強調している。アポロン的衝動で造形された塔、すなわち日々のモチベーションを守るために作られたオリュンポス神話は、永遠ではなくいつか崩れてしまう。それにもかかわらず、今の自分の地位が最高で永遠だと勘違いする傲慢さを持ち、理想を追うことを忘れてしまうと、災厄が訪れるのだ。

 しかし、ここで気を付けるべきは、人間がいくら自戒しても、傲慢の罪と災厄を完全に防止することはできないという点である。人類は、星に属する傲慢さや罪と、塔に属する傲慢さや罪を、どちらも背負っており、そのいずれか、または両方の罰としての苦悩・災厄から逃れることはできない。これは宗教的には「人は罪深いアダムとイブの子だから」とか、「神がそう予定している運命だから」などと表現されるだろうが、より現実的な説明も可能である。

 星に属するのは、資源に限りがある現世で生存競争に勝つためには他者から奪わねばならないという、人間が先天的に持つ傲慢さと罪である。そして理想を目指す善行すら他者を犠牲にしていた事実に気付いた時、人は罪悪感に苦しみ、己を塔のような孤立の中に幽閉するだろう。劇中で「クレールらしく」描かれる少女たち(*24)には、この自己犠牲的な災厄が目立つ。その代表がTV版の神楽ひかりである。イギリスのオーディションでの敗北を経て、トップスタァになれなかった舞台少女は生きる意欲を奪われることと、自分の舞台への憧れに巻き込んでしまった愛城華恋も犠牲になることに気付いてしまい、肩代わりとして己を幽閉したのだ。大場ななが誰も傷つかない再演に皆を閉じ込めた上で自分だけの秘密を抱え続けたことや、天堂真矢が自分を孤高のスタァや神の器に閉じこめようとしたこと、花柳香子が京都と千華流に逃げこもうとしたことも、星に属する災厄である。TV版は星の罪を中心とした物語であった。

 一方塔に属するのは、理想を忘れて現在の地位で満足したり、手段を目的化するという、後天的な傲慢さと罪である。こちらは自戒によって防げるように思えるかもしれないが、実際は不可能である。人間は、転びたくなくてもいつかは転ぶし、失敗しないよう注意していても失敗してしまうものだ。それと同様に、理想を忘れず謙虚でいようと意識しても、自惚れの頻度を減らすことしかできない。そして、忘れていた星の遠さと輝きに打ちのめされ、足元の成功や信仰は崩壊して落下してしまう日がいつか来る。劇スでの愛城華恋をはじめ、「フローラらしい」少女たちの災厄、すなわち星見純那が役者として舞台に立つのを諦めつつあること、西條クロディーヌがレヴューデュエットで満足していたこと、石動双葉が自信を失い花柳香子との対話も諦めていたことも、塔に属する災厄である。また、劇スは塔の罪を中心とした物語のため、クレール的な少女たちも塔の災厄に襲われている面がある。

 本章で考えてきた『戯曲 スタァライト』のフローラとクレールの災厄が暗示するもの、それは、われわれ人類がさだめのように必ず経験する二種類の罪とそれが引き起こす苦悩である。星の罪に対する塔への自己幽閉という罰も、塔の罪に対する星に焼かれ壊されるという罰も、人間は避けることができないのだ。


*16 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE- (スタリラ)』では愛城華恋は運命の輪の立ち位置を与えられているが、本論文ではスタリラを議論の対象にしない。

*17 役者業は過酷で不安定であり、地位や金銭など即物的な利益が目的ならほかの進路の方が良い。

*18 ラテン語の格言。

*19 TV版第12話で何度もクレールの星積みを阻止した舞台装置は自然の暴力や、それから派生した人間のネガティブ感情(すなわちスタァライトの六人の女神)などティターン的なもので構成されたと考えられる。ギリシャ神話においては、多くのティターン族がタルタロスに監禁されたとはいえ、兄弟族の巨人たちは相変わらず英雄たちを妨害した。たとえば、オデュッセウス一行を攻撃したポリュペーモスもその中の一人である。

*20 自意識が生まれ、羞恥心を感じたから、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った」(『聖書:聖書協会共同訳』創世記3:7)。J.D.Velleman(2001).The Genesis of Shame. Philosophy and Public Affairs 30(1):27-52.したがって、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる。土があなたのために生えさせるのは茨とあざみである。あなたはその野の草を食べる。土から取られたあなたは土に帰るまで額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。」(『聖書: 聖書協会共同訳』創世記3:17-19)という罰が下された。野生動物も生存のために全力を尽くしてはいるが、自意識がないため、自分の存在に苦悩してはいないはずである。

*21 創世記11:1-9を参照。

*22 もっとも普及したウェイト版タロットの絵柄では、塔の頂に雷が落ち火の手が上がっている。そして塔のカードのフランス語名である「神の家」(La Maison Dieu)は「火の家」(La Maison de Feu)の誤写だとする説もある。おそらくこれらは、避雷針発明以前は、神の怒りとされる雷により高い建物が火事になりやすかったためである。また面白いことに、塔の頂から落ちる王冠(スタァライトでは愛城華恋のシンボル、註28参照)も描かれている。

*23 もっとも有名な監獄塔と言えばロンドン塔であろう。TV版でロンドンのオーディションで背景として登場し、東京タワーと対比されたタワーブリッジの名前も、ロンドン塔に由来する。

*24 CDシングル『サイカイ合図』星ver.と花ver.のジャケットでは、キャストたちが演じるキャラクターがクレールらしい少女とフローラらしい少女に明白に分けられている。

4.愛城華恋の迷い

 共演の願いを叶え、神楽ひかりが聖翔音楽学園を去ったあとの愛城華恋は、目指すべきものをなくして迷っている。前述の通り、これは愛城華恋が二人で目指す舞台を唯一絶対の目的としてしまい、一つの経過点だと考えなかったためだ。だが、それを責めることはできない。これまでの彼女は、二人の約束が運命であるという神聖性と正当性を守るために、真実から目を逸らし(*25)、自分が想像した夢しか見ようとしなかった。それは舞台少女になる狭き門をくぐり抜けるため(*26)、やむをえず己についた高貴な嘘だったのだ。しかし、神楽ひかりと共に頂の景色を見た時点で、その神話は役割を終えたのだろう。そして愛城華恋は意味を失った塔の頂に取り残され、魂の孤独や自己懐疑など実存的危機に陥っている。

 ここで、心理学者のユングが見た夢を記録した『赤の書』を引用する。荒れ野を彷徨うユングの夢への省察は、愛城華恋が直面した危機の内容と、舞台人として再生する道への理解を助けてくれる。

 私の魂は、私を荒れ野へと、私自身の自己の荒れ野へと導く。自分の自己が荒れ野であるとは、思ってもみなかった。そこは、涸れた灼熱の荒れ野で、埃まみれで飲み水もない。旅は、熱い砂を通り抜け、ゆっくりと進みながら、目に見える目標もないまま、希望へと向かわせる。なんてひどい砂漠なのだ。この道は、人間から限りなく遠くへと導いていくようだ。私は自分の道を一歩ずつ進む。しかし自分の旅がどこまで続くのかはわからない。
 なぜ私の自己が荒れ野なのであろうか? 私は、あまりにも自分以外の人間やものごとの中で生き過ぎたのであろうか? なぜ私は自分の自己を避けてきたのか? 私は、自分にとってかけがえのない存在ではなかったのか? けれども私は、自分の魂の場所を避けてきた。もはやものごとやほかの人びとではなくなってから、私は自分の思考であった。けれども私は、自分の自己ではなく、自分の考えと対決していた。私は自分の考えを超えて、自分自身の自己にならねばならない。私の旅はそれを目指して続き、それゆえに人間やものごとから離れて、孤独に至るのである。孤独とは、自分一人でいることであろうか? 孤独とは、自己が荒れ野であるときだけであろう。

C.G.ユング『赤の書[テキスト版]』164頁、河合俊雄ほか訳、2014年、創元社。

 ユング心理学において、心は意識と無意識によって構成されており、無意識は意識よりも人間の行動や意思決定にずっと大きく影響を与える。この意識と無意識両方を合わせた心全体の中心が「自己」であり、内面の可能性を実現する主体とされる。一方で、われわれが普段「私」だと認識できる、意識の中心は「自我」と呼ばれる。無意識や自己は、目覚めている間に触れることはできないが、しばしば夢を通じて本人の意識に伝わるとされる。ユングはこの夢で、自分の自己が荒れ野である、もしくは荒れ野になっていることに気づいた。そうなった理由は、真の自己と向き合うことを避け、代わりに自分の思い込みばかり見ていたためだと彼は考える。それこそが魂の孤独なのだ。それを克服するには、自分の思い込みを超えて自己になる必要がある。たとえその旅で周りの人から独立しなければならないとしても。

 愛城華恋の自我にとって、約束の塔への旅路は砂漠の中にある。彼女はTV版以前から砂漠を歩んできた。そこは、彼女が世界から孤立していることを意味する、砂漠化した自己である。だがその孤立が彼女をティターンたる怖るべきものから——つまり本物の舞台の熱さや、スポットライトの眩しさから——守ってもいたのだ! 運命の舞台を目指す強い意志が作った砂漠が! しかし、その意志ゆえに彼女はユングの言う「自分の思考」になってしまった。劇スの終盤で愛城華恋が口にする舞台少女になった理由も、神楽ひかりから、実体験ともセリフのようなフィクションともつかないアポロン的幻想だと指摘されてしまう。神楽ひかりの喝破で舞台の緞帳が上がったことは、「マーヤのヴェール」(*27)に、すなわちアポロン的な仮象や高貴な嘘に隠されていた、全ての真実が暴かれたことを示唆している。真実という怖るべきティターンの暴力が、無意味と化していたオリュンポスを決定的に崩壊させ、フローラの目を焼き、愛城華恋の意識を失わせたのである。そして傲慢さと罪深さの罰として彼女は落下し、とうとう砂漠である自己と向き合わねばならなくなる。

 第3章で述べたように、星が象徴する罪や傲慢と、塔が象徴する罪や傲慢、どちらも背負っている人類にとって、災厄と苦悩は神のさだめのように不可避である。だが、この局面において、ニーチェに学ぶことが大いに意味を持つ。悲劇についてのニーチェの考えに則すれば、星はディオニュソス的な衝動、塔はアポロン的な衝動と解釈できるということも第3章で述べた。そして第2章で述べたように、ニーチェは二つの衝動・芸術性を肯定的に捉えている。両者を兼ね備えたギリシャ悲劇を、セイレノスの知恵から人間を救う優れた芸術だと考えているのはそのためである。そしてニーチェは、キリスト教への反論として、原罪や瑕疵であり抑制すべきだとされてきた人間の本能を、進化のために必要なものだと肯定的に評価しなおした思想家でもある。ゆえに愛城華恋の罪の克服と再起には、ディオニュソス的衝動とアポロン的衝動、彼女を罪に導いた星と塔こそが必要になるのだ。それどころか災厄すらも、真の成長のための必然的過程なのであろう。

 愛城華恋が再生するためには、自我が砂嵐の中で破壊されかねないとしても、自分の考えを超え、彼女の自我を自己と等しい高さまで上昇させなければならない。破壊と創造からなる再生産、すなわち進化である。自分自身の破壊をより良い存在として再生するための試練とする考え方は、神話などでもしばしば火のモチーフを用いて表現される。愛城華恋自身のシンボルであるクラウン(*28)を溶鉱炉に投下する変身シーン(再生産バンク)も火の試練の一つである。この発想はおそらく、人類が冶金技術を発明し、火による変化・変形で鉱石から利用価値のある金属を取り出せるようになったことで生まれたのだろう。当時、溶鉱炉の温度はまだ低く、酸化物が不安定な貴金属しか製錬できないために、火による試練を受けたものは高貴な性質を持つとされた。人間についても、試練は「修練者をして俗人の状態に死なせ、一個の新しい、超人間的存在に復活させる」(*29)と考えられてきた。そして劇スでは、溶鉱炉以上にラジカルな行いとして、過去の自分やまわりの人との思い出、とりわけ神楽ひかりからの手紙を燃やし尽くした。それは今までの出会いや出来事を否定するためではなく、きちんと過去の幕引きをすることで前に進むためである。冥府への旅によって仲間を葬ることの大切さを知ったオデュッセウスが、現世に戻り部下エルペノールを埋葬した(*30)ように、愛城華恋の自我が、過去の思い出につけた浄化の火である。ディオニュソス的な情熱の火種が役割を終え崩壊した神話の残骸を火葬する、そのエネルギーで列車は加速し、新たにアポロン的に建造された発射台を駆け上る! こうして愛城華恋は自我につきまとう過去から解放されて再生し、自己の高みに至ることができたのである。


*25 愛城華恋がロンドンからの神楽ひかりの写真を見ないのは、約束を忘れられた可能性が存在するという真実から逃避するためであろう。狩りのレヴューにおける大場ななの映画と写真も、星見純那の砕けつつあるアポロン的幻想へとどめを刺す真実の刃である。そして狩りのレヴューの直後の回想シーンで、愛城華恋がひそかに神楽ひかりの情報を検索する描写がある。神楽ひかりが舞台少女を目指しているという検索結果は、幸か不幸か、愛城華恋が考えた運命への信仰を強化したのである。

*26 TV版第1話のキリンによれば、「普通の喜び、女の子の楽しみ、全てを焼き尽くし、遥かなキラめきをめざす」ための覚悟。

*27 『悲劇の誕生』32頁。

*28 クラウンは王冠を指すだけでなく、道化師(大アルカナの愚者)との語呂合わせとも考えられる。

*29 M.エリアーデ『生と再生——イニシエーションの宗教的意義』180頁、堀一郎訳、1971 年、東京大学出版会。

*30 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』82、86頁、1960年、岩波書店。ギリシャ神話でしばしば見られる冥府行(Nekyia)とも呼ばれるテーマであり、死んだ家族や知り合いから神託を受けることにより、自分が課せられた使命やすべき事を再認識するケースが多い。愛城華恋の気絶と落下、そしてその状態で過去の人々と精神的な再会をしたことは冥府行とも読みとれる。

5.星がキラめく舞台

 愛城華恋のキラめきは、フローラが見た星の明かりを反射する彼女の自己だと考えられる。なぜなら、ニーチェが述べる「ドラマ芸術の前提である(……)魔法にかけられた状態のなかでディオニュソス的な熱狂者は自分をサテュロスとして見るのであり、さらにサテュロスとして神を見る」(*31)現象が『戯曲 スタァライト』に陶酔した愛城華恋に起こったとしたら、至高の善を提示する星が帯びる神性(*32)が、彼女を魅了すると同時に彼女に宿ったはずだからである。第3章で述べたように、この善とは個人の自意識と共に生まれた、自分の理想を追求しようという概念である。
 ここで、TV版第2話の聖翔音楽学園の授業内で登場した舞台理論を参照する。この舞台理論を、人生という舞台においていかに理想の立ち位置を探すのかという議論に拡張して考えると、歴史学者のキグリーが考案した人間と自然の関係(*33)との類似が発見される(図2)。

図2 図左:舞台俳優の舞台上の立ち位置の見つけ方、図右:自然環境や社会と人間との関係(筆者が作成)
図右はキグリーの『Evolution of Civilizations』第2章より改変した。社会というものは生物学的基礎で制約された個々の人間とその文化から構成されていることがわかる。

 オリュンポスの神話やアポロン的幻想が、過酷な自然に適応するためギリシャ人の意識が(集合的に)作ったものであるように、キグリーの言うところの文化は、人間が自然環境から影響を受けて作り上げた考えや信念(行動、感情、思考のパターン)や人間関係を指し、また時には、環境に適応するため自らの本性に制約される選択肢を変えるツールである。文化とは「生得的本性」と対照的な、より良い自分の可能性を積極的に追求する手段であり、言い換えれば図1で述べた「星摘み」行為において星に近づくための塔である。ヘーゲルによれば人間は「行動することによって(……)自然的所与存在と自己との差異を実現し顕在化するのである」(*34)とされ、ニーチェもこれを個人の「自由なる意志」(*35)の実現と考える。人間は文化という、必要に応じて文化自体の変化も可能な便利なツールを手にし、環境への適応を始めた。さらに文化は生得的なものではないため他人と共有することもできる。人々の間での文化の共有、すなわち文化の伝播は一種の「非ダーウィン進化」であり、社会的学習によって比較的低いコストでの進化を促す(*36)とされる。このような観点に立つと、臆病で自己主張が苦手な幼稚園時代の愛城華恋が、その本性を克服して舞台少女へ成長できたのは、神楽ひかりと約束を交わして(*37)信念を持つという、まさに文化の共有・伝播があったためだと理解できる。そして運命の舞台を目指して始まった二人の星摘みが究極的に向かうべき場所は、より良い自分への進化だったと言えるのである。

 とはいえ、次のことも導かれる。文化は個人と自然環境の架け橋なのだから、いずれかの岸辺が変化すれば、文化も本来の役割と意味を果たせなくなるはずだ。自然環境は言うまでもなく、個人もまた「進化」する存在であり、変化は免れえない。この点からも、愛城華恋が陥った苦悩、すなわちアポロン的幻想や文化というツールの無力化は必ず起こることがわかる。しかし、古いツールで形作られた個別化の原理(常識や心の枷)を破壊して無限の可能性へ開眼するディオニュソス的な体験と、次なる幻想や枠組みをアポロン的に造形することを繰り返し(*38)、舞台少女は日々進化することができる。このヘーゲル弁証法的な「破壊と再生」をさだめた大いなる原=物語が、かつては素晴らしきアッティカ悲劇を産み(*39)、そして、遠い昔の遥か未来のスタァライトを誕生させるのである。


*31 『悲劇の誕生』68-69頁。

*32 神楽ひかりが気絶した愛城華恋を抱く構図はミケランジェロの彫刻《ピエタ》の聖母マリアとキリストを参考にしたものと見られる。

*33 C.Quigley.The Evolution of Civilizations. LibertyPress,1979,pp.57-65.

*34 註13参照。

*35 註9参照。

*36 L.-A.Giraldeau. "The Ecology of Information Use".J.R.Krebs,N.B.Davies.Behavioural Ecology:An Evolutionary Approach. Blackwell Publishing,1997,pp.63-66.

*37 進化論の例証としてよく知られているキリンをダーウィン的な進化の象徴とすれば、二人の約束が非ダーウィン的進化であるために、キリンのオーディションを揺るがすことができたと考えられる。

*38 可能性の名を持つ剣が折れたのは、ディオニュソス的現実と日常的な現実が融合した新たなステージに向かうためには、無限の可能性をあえて制約することが必要だからだろう。

*39 『悲劇の誕生』47頁。

6.結論

 再生した愛城華恋は、独立した一人の舞台人として、新しいステージへの一歩を踏み出した。それは神楽ひかりとの絆の否定なのだろうか? いや、そうではない。夏の星祭りで見上げた星が特別な意味を持ったのは、その下で二人が再会の約束をしたからだ。舞台少女たちもみな、大切な誰かと出会ったから、燃える情熱と強い意志を持ち、それぞれの星のもとのポジションゼロを目指したのだろう。そして彼女たちは『戯曲 スタァライト』を通じて、配役に縛られた自分を解放し、本物の宝石を生み出した。それは「自由なる意志」を持つ、より広い世界に触れる自己である(*40)。一度見上げた星への執着をようやく手放し、舞台少女の上掛けが鳥のように空を遠く飛んで行く。代わりに彼女たちは次の舞台を目指し続ける永遠の願いを手に入れた。それに伴い、二つの恒星が生んだ真っ白な光が新たなスタァライトの誕生を告げた。約束の舞台の意味は昇華され、あるいは、ヘーゲルの言葉を借りれば揚棄され(aufgehoben)、彼女たちは自分を次の場所へ向かわせる準備ができた。それゆえに映画の最後のセリフとして、愛城華恋の「みんなをスタァライトしちゃいます」は、新しい舞台のオーディションで響いたのだ。


*40 L.Huskinson.Nietzsche and Jung:The Whole Self in the Union of Opposites. Routledge,2004, p.59.

本稿は、著者である漁夫の第一言語が日本語でないことを鑑みて、著者稿をもとに本合同誌参加者である高島津諦が一部改稿を請負ったものである。

著者コメント(2022/10/10)

 初めまして、漁夫です。最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。スタァライトとニーチェ思想の関連について、これまで舞台創造科の知り合いに聞かれても、「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」しか答えなかった理論が今、論文の形になりましたことを、主催者と編集者の皆様に深く感謝しております。特に寝言ぐらい過酷だった原稿を直してくださった高島津諦さんに、この場に借りて重ねて御礼申し上げます。実際執筆し始めてから、何度も新たな視点を発見し、ストーリーに対する理解をさらに深めたことを幸甚に存じます。また、この素晴らしい作品を作ってくれたスタッフたちと、それに出会うことができる代に感謝の気持ちを忘れません。

 では、次どこかの舞台で会いましょう。また、飲酒は20 歳になってから。


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