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書籍『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』
洲之内 徹 (著), 洲之内コレクション「気まぐれ美術館」 (イラスト)
出版社 求龍堂
発売日 2008/6/1
単行本 317ページ
![](https://assets.st-note.com/img/1729263774-yIL6x1dbN9gD4RtO2KWwBFAT.png)
目次
コレクションでないコレクション 洲之内徹
こんにちは「気まぐれ美術館」 白洲正子
洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵
没頭と放心 源田光
洲之内徹略歴
作家略歴
「現代画廊」史
作家索引
内容紹介
白洲正子が心酔し、美術の枠を超えて絶大な人気を誇った洲之内徹の連載「気まぐれ美術館」。著者が「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、生涯を掛けて集めたコレクション146点に、圧倒的な魂の言葉を名随筆より抜粋して構成。
洲之内徹の美意識の昇華を堪能する唯一の書、画文集スタイルで登場。
海老原喜之助、長谷川利行、萬鉄五郎、佐藤哲三、松田正平、村山槐多、青木繁、梅原龍三郎、松本竣介をはじめ、有名、無名まで、著者が愛した90作家の珠玉の逸品146点。
親交の深かった白洲正子の追悼文「こんにちは“気まぐれ美術館”」/原田光書き下ろし「没頭と放心」掲載。初公開、洲之内徹の手書原稿も収録。
レビュー
主に洲之内徹のエッセイ『気まぐれ美術館』シリーズから、とりわけ素敵な、そして鋭利な文章を抜粋し、その隣や次ページに、その文章に登場する画家のカラー図版を、「洲之内コレクション」より添えてある。
たとえば、こんな感じに
![](https://assets.st-note.com/img/1729267150-xrDdJYZ73cO5LlbmCipWeRqH.png)
「猫」の絵だけは、六年前にもう完成していた。完成していると思ったので、私は譲ってくださいと頼んだ。すると長谷川さんは、まだ髭がかいてないからお渡しできませんと言った。言われてよく見ると、なるほど髭が無い。
「では、ちょっと髭をかいてください」
と、私は重ねて頼んだ。すると長谷川さんはまたかぶりを横に振って、猫が大人しく坐っていてくれないと描けない、それに、猫は冬は球のように丸くなるし、夏はだらりと長く伸びてしまって、こういう恰好で寝るのは年に二回、春と秋だけで、だからそれまで待ってくれ、と言うのであった。
長谷川さんの絵のかき方を十分承知しているつもりの私も、これには驚いた。なにも髭だけかくのに猫全体がそっくりこれと同じ形になるのを待つことはあるまい、そうは思ったが、穏やかなようでも言いだしたら聞かない長谷川さんである。それに猫は猫でもただの猫とはちがう。長谷川さんが家族同様の待遇をしている猫なのだ。たかが髭くらいなどと軽々しいことを言ってはならない。私は言われるとおり待つことにした。
※本書における⇩の文章は、洲之内徹の自筆原稿の写真を用いて記載しております
幸福とは何もそんな念の入ったものじゃない、と自分で言っておきながら念の入った話ばかりしているが、どう考えても、幸福とはやっぱり単純なことなのだ。当人が幸福だと思えばそれが幸福で、幸福になるのに格別面倒な手続きなどは要らない。私なんかは雨の降る日、自分は濡れずに部屋の中に座っているというだけでたちまち幸福になってしまう。ショウペンハウアーが「幸福とは苦痛のない状態のことである」と言っていたと思うが(言っていないかもしれないが)、この言葉が他愛ないように、幸福というもの自体が他愛ないのだ。何も幸福、幸福と言って騒ぎまわることはない。
長谷川麟二郎の《猫》を見ていただこう。猫が幸福なのか、描いた長谷川さんが幸福なのか、見ている私が幸福なのか分からないが、この絵なんかもやっぱり「幸福の絵」なのではあるまいか。すくなくとも、この絵を見て不幸にはならない。
個人的に長谷川潾二郎の『猫』は大好きで、その絵に関する洲之内徹の文章も大好きで、気付けば本書を開いていたりする。しかしながら洲之内徹の鋭利な文章には、またそれとは違う魅力があり、私はやはり本書を開いてしまう。
私が考えるのはこういうことである。人はよく「絵になる」とか「絵にならない」とか言うが、それは、物を見て感動しても、自分にそれが描けるかどうか考えてみるのだということ、そのうちに追々自分の描けると思うものに自分の感動を限定するようになるかもしれないということ、さらにまた、職業的な画家ともなればなおさら、自分の得意なもの以外は対象を真剣に見ようとも、探そうともしなくなり、逆に、自分の身につけた技術と様式に合わせてしか物を見なくなるのではないかということである。
売れないということは、画家にとって、決して不幸とは言えない。絵が売れ出すと、たとえどんな画家でも、お客の眼を意識しないでいることはむつかしい。画家の眼が、画家以外の者の眼で水を割ったような具合になる。他人の眼が絵の中に入ってくる。
心ある画家にとって、他者の眼との戦いこそ真の戦いであろう。
いまの絵が概してつまらないのは、要するに、この「ね、見て、見て、」がいけないのだと思う。
こんにち、われわれは、必要もないことを知ろうとし過ぎてはいないか。
どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。
買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である」と。
今回、「絵」の部分を「文章」に置き換えて読んだ。
愕然とした。