映画『マリー・アントワネット』
2006年/製作国:アメリカ/上映時間:123分
原題 Marie Antoinette
監督 ソフィア・コッポラ
予告編(海外版)
予告編(日本版)
STORY
わずか14歳にて親元からも祖国からも離れ、異国の地であるフランス王室に(政略結婚にて)嫁いだマリー・アントワネット。
慣れない環境と習慣。周囲からの嫌がらせ(視線含む)。
自らの意思に反し「権力維持」&「世継ぎ生産」装置にされてしまったマリーに対する、国内外から押し寄せるプレッシャー。人間性を否定する狂気の慣習の数々。そして思いやりも愛も無い、結婚生活。
ヴェルサイユ宮殿に囚われの身となったマリーの心は、日々の戦いに疲れ果て、徐々に蝕まれてゆく……
しかし……
レビュー
※幼い頃に記したものと数年前に記したものを合わせ、編集したもの
やさしい気持ちにしてくれる作品。
監督のソフィア・コッポラ(以下:ソフィア)がマリー・アントワネットを題材に描くは、(やはり本作も)普遍的な女の子の悩み(ゆえにキルスティン・ダンストの配役にはとても納得)。
マリーの精神状態は、洋服、音楽、カメラワーク等により丹念に描かれてゆきます。
たとえばマリーが精神的に不安定な状態になると、カメラを手持ちにして画面をワザとブレさせ、マリーと共に床に崩れ落ちることにより、精神的にダウンする様子を演出。
実母からの「早く子どもを生みなさい」との指令が記された手紙を何度も受け取り途方に暮れたときには、巨大なヴェルサイユ宮殿のバルコニーにポツンとたたずむマリーを冷たく機械的なズームカメラの視線で捕らえ、その映像をどこまでも直線的に引いてゆくことにより絶望的なまでの心細さを表現。
音楽は、買い物やギャンブル、お菓子等を貪り「躁」状態になるとロックや軽快な曲がかかり、心から満たされたときには、音楽ではなく鳥などの鳴き声や植物が風にそよぐ音にしてみたりと、繊細なマリーの心の変化を描こうとする工夫が随所に散りばめられており、とても繊細です。
ソフィアは本作にて、マリーの(というか一人の女の子の)精神面を主題に描こうとしているように感じられます。孤独、不安、悲しみ、ストレス(と、その放出)、絶望、恋、安らぎ、我が子を失う苦しみ、プライドと覚悟を内に秘めた強い心、等を。
鑑賞後にふと、「現代の都市という場所はもしかすると巨大なヴェルサイユ宮殿なのかもしれない」と思いました。なぜなら基本的な女性の悩みは、マリーの時代から余り変わっていないのではないか、と感じたから……
ゆえにソフィアが「マリー・アントワネット」という素材を選んだのは、歴史的な事実がどうこう……というようなことを描きたかったからではなく、自分の意思とは無関係に、ある特殊な環境の中に閉じ込められながら人生を送ることを余儀なくされた、「一人の普通の女の子」の物語を描きたかったからではないでしょうか……
であるならば本作は、作品内に登場するフランスのブルジョワ達のように、「格式」や「常識(という名の偏見の蓄積)」にとらわれてしまっている人々には、永遠に理解することの叶わない作品であるような気がします。
本作には、オペラのシーンが2回登場します。マリーは2回とも素敵なオペラに対し、心からの拍手を贈ります。拍手が禁止されている常識の中、1度目は、観客もマリーにつられて盛大な拍手。しかしフランス王室の権威が失墜した2度目にはマリーが拍手をしても、観客は誰一人として拍手しません。それはマリーが純粋に芸術を愛し拍手していたのに対し、他の観客達はマリーが自らの権力を誇示するために拍手していると考え、「芸術」ではなく「権力」に対して拍手をしていたから。
もしかすると現実のマリーも本作で描かれたように、素朴で、素直で、自分の感覚に正直な、でもちょっと「天然」味が強くて、しかも格式なんかに左右されることのない洒脱な性格ゆえに、周囲から浮いてしまい、とんでもない誤解と妬みを受けた挙句、最終的にスケープゴートにされてしまった女性なのかもしれません。
ラストショット。
破壊された「あの部屋」に自然光が差し、ある音が聞こえた瞬間、涙があふれ、とまらなくなりました。
最後まで囚われっぱなしの人生だったマリーが、ようやく、「自由」になれたことがわかったから……
全ての女の子におすすめです。
ヴェルサイユの思い出
小さい頃、ヴェルサイユ宮殿を訪れました。
その時の最も鮮明な記憶は……
【広くて長い廊下にて】
ガイド:「ハーイ、皆さ~ん。あそこの廊下の隅の絨毯の色、少し黒っぽくなっている箇所がありますけれども、見えますか~?」
小さい頃の私:その場所を見る
ガイド:「はい、それではクイズで~す!あそこには何が置かれていたでしょう」
小さい頃の私:一生懸命考える(大量のお花が飾られた大きな「花瓶」とかかな?)
(少し間を置いて)
ガイド:「さぁ、どうでしょう? 皆さんわかりましたか? (中略) はい、では答えを言いま~す。あそこに置いてあったのは「トイレ用の容器」で~す!」
小さい頃の私:(エッ……⁉)
ガイド:「ヴェルサイユ宮殿には昔、トイレはありませんでした。ですのでみんな、廊下などに置いてあるツボなどに用を足していました。ですから結構臭かったらしいですよ。それで香水文化が良く発達したんですね~(ドヤ顔の微笑み)」
小さい頃の私:(ヒッ……。そ、それってトイレがなかったっていうか……、も、もしかしてヴェルサイユ宮殿全体が……ト……トイ【以下略】)
知らない方が良いことって、あると思う……
実際に行かない方が良い場所も、あると思う……
返してほしい。私の「ベルばら」のイメージを……
オスカァァァァァァァール!!!
※念のため記しておきますけれども、上記事実を知った頃、私はまだ「ベルばら」の存在を知りませんでした。
出会う以前に「奪われる」悲劇でございます……
余談
衣装デザイナーは、ミレーナ・カノネロ。
アートワーク(スチール写真)は、アニー・リーボヴィッツ 。
本作には現代のスニーカーも登場するけれど、その使い方も素晴らしかった。
精神的な限界が訪れ、それまでの自分を脱ぎ捨てて、ある意味キャラとしての「マリー・アントワネット」へと変貌を遂げるシーンにて使用されていたりします。
そのスニーカーには様々なメタファーを連想してしまった記憶があり、覚えているのは、色と汚れ具合、そしてスニーカーという靴の種類からマリーの内面の状態や状況をイメージしたこと。その幼さに共感し(自分と重ねて)、泣けてしまったこと。
またミレーナ・カノネロの仕事は本作においても力強く、セリフや演技以上にマリーを語って見事でした。
史実にてマリーが愛したデザイナーや楽器、音楽、プチ・トリアノンについての見解等まだまだ記したいことはたらふくありますけれども、長くなってしまったため、今回はこの辺にて……
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?