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映画『インターステラー』

2014年/製作国:アメリカ/上映時間:169分 
原題 Interstellar
監督 クリストファー・ノーラン



予告編(日本版)


予告編(海外版)


STORY

 近未来。アメリカ。
 巨大な砂嵐が日常的に発生する異常気象により地球規模で植物・農作物の大量枯死が発生し、人類は滅亡の危機に晒されていた。
 元宇宙飛行士のテストパイロット、クーパーは、義父と15歳の息子トム、10歳の娘マーフィー(マーフ)と共にトウモロコシ農場を営んでいた。マーフは自分の部屋の本棚から本が独りでに落ちる現象を幽霊の仕業であると信じていたが、ある日クーパーはそれが何者かによる重力波を使った二進数のメッセージではないかと推測する。クーパーとマーフはメッセージを解読し、それが指し示している秘密の施設にたどり着くも、最高機密に触れたとして身柄を拘束されてしまう。

 しかしそこでクーパーは、かつての仕事仲間であるブランド教授と再会することとなり、消滅したはずのNASAが秘密裏に復活して活動を続けていることを知らされる。NASAは土星近傍のワームホールを通り抜け、別の銀河に人類の新天地(新たな居住用の惑星)を求めるプロジェクト❝ラザロ計画❞を秘密裏に推進していたのであった。
 48年前に”彼ら”と呼ばれる存在によって創造されたと考えられているワームホールを通過することにより、人類の生存(移住の)可能性が見込めるという12の惑星に、既に1名ずつの探索者が送り込まれており、その内3名の探索者達から、入植の期待が見込める惑星より信号を受信しているという。
 ブランド教授は、第二の地球となりうる惑星を探索するミッションにパイロットとして参加するようクーパーに打診し、説得。クーパーはその打診を受諾する。しかし運良く帰還することが出来たとしても、それがいつになるのかが全く不明である命懸けのミッションに、マーフは激しく反対する。そしてクーパーはマーフとの和解の機会を得られないまま、出発の日を迎えてしまう。クーパーはマーフに「必ず戻ってくる」とだけ言い残し、アメリア(ブランド教授の娘)、ロミリー、ドイルの3名の博士と共に、人工知能ロボットTARSを乗せた最後の探査船レインジャーに搭乗し地球を後にする。


 ※以下、本作鑑賞直後の脳内反応を思うままに記したようなレビューとなります。纏まりはありませんし、どうやら過去の己は読む人のことを一切考えずに記したようです。なので読む価値はないかもしれません。
 しかしながらなんだか今の自分よりも勢いとパワーがあり、最早他人である「自分であったらしい人」の文章に「今も変なのに今よりももっとずっと変なヤツだったのか……」とビビると同時に、「にしても、脳内好き放題に暴れまわって自由だな……」と仄かな嫉妬ジェラシーも感じました。

レビュー 初見時(2020/04)

 数学の世界は「レベルが高くなればなるほど想像力が大切になる」と聞いたことがあります。仮定(想像)を用いて考える必要があるからでしょうか。

 私は数学や物理学に関する知識はほぼゼロですけれども、本作の終盤に提示された高次元空間の想像過程には、2007年に成された「ポアンカレ予想」の3次元部分への解読による影響を感じました(5次元と4次元に関しては、その数十年前に解決済み)。
 また、アインシュタインの「一般相対性理論」やニュートンの著書『自然哲学の数学的諸原理』等からの理論の引用に関しては、科学的な側面への基礎的な説明(又は言及)を、作品内にてある程度噛み砕いた形にて鑑賞者に提示することにより(最終的にはその概念を少なからず打ち破りますけれども)、鑑賞者の想像力を掻き立て、物語の磁場の中心(愛)へと強く引き寄せる役割を担っていたように思いました。
 また個人的に「超ひも理論」に興味があるため、そのあたりの理論も少し取り入れられているように感じ、終始楽しく鑑賞。
 
 ※【超ひも理論(超弦理論)】について
 これまでに発見済みの素粒子を、一本の「弦」から生まれる「音色」の違いに置き換えて考えることにより、独立した全く別のものと考えられてきたそれぞれの素粒子が、たった一本の「ひも」のようなものから生まれている可能性があることを示唆する理論。
 短くまとめると【物質の基本的単位は、大きさが無限に小さいゼロ次元の点粒子ではなく、1次元の広がりを持つ「ひも」である】という感じでしょうか。
 別の言い方をするなら、弦楽器の弦は張る長さや強さを変えたり奏で方を変えることにより、無限の音色を生み出すことが可能です。それを踏まえて物質の基本的単位は(一本のひも[弦]のような)同じものであり、その元となるもの(一本の弦)が様々に振動することにより、さまざまな状態(音色)が生み出されているのではないかとする考え方。

 『インターステラー』においては5次元の存在が描かれていますが、「超ひも理論」は5次元以上の存在を示唆する理論でもあります。
 ※私の理解は非常に浅いため、説明が間違っている可能性があることを記しておきます。

 
 本作には「時間」という言葉が何度も登場します。しかしそれは私たちが一般的に考えている時間とは、全く別のものであるように感じました。
 大多数の人々は「時間」というものが、過去、現在、未来、という一方向にのみ流れているという概念を持って生きていますし、それを「時間」と呼んでいます。しかし「時間」に対するそのような考え方は間違いであるということを、本作は描いていたように思います。

 結論から先に記すと「時間などというものは本来存在しません」ということです。
 以下にその理由を少し説明いたします(説明をしなくとも作品内の「腕時計の使用法」を御覧になり皆さんは理解なさっているとは思うのですが、自分用のメモも兼ねて記します)。

 端的に記しますと、時間というものは「時計」による発明品であるということです。要するに、人間は「時間」という本来存在しないものを創り出すために、時計という道具を発明したということになります。

 空間(次元)的な部分を考慮して説明を試みると、過去、現在、未来というものは線上の時間軸に横並びにそれぞれ別に存在するものではなく、今この瞬間(一点)に過去、現在、未来の全てが同時進行的に存在しているということです。ですから本来「時間」などというものは存在せず、ある空間(次元)で様々な変化がそれぞれに繰り返されているだけというのが、この世界の本当の姿ということになります。仏教用語で言うところの「万物流転」という言葉がそのような状況に近いかもしれません。

 また調べていただくとわかりますけれども、現在流布している「時間」の歴史は紀元前2000年頃が始まりと言われていて、そこまで長くはありません。人は都市を形成する過程で、コミュニケーションを円滑にしたり、都市機能の効率を上げるなどの目的で「時間」というものを創り出した可能性が高いと言えます。

 少し話が飛びますけれども、宮沢賢治は『春と修羅』にて「時間」という言葉を用いずに、そのことを上手く表現しているように思いますゆえ、以下にその一節を引用します。

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるように
みんなのおのおののなかのすべてですから)

 如何でしょうか。この一節を読んだとき、私は賢治の感覚の凄まじさに慄きました。またこの一節は「超ひも理論」にまで通ずる考察であり、賢治が何故セロ(チェロ)を愛したのかを考えると「賢治という人は感覚的にどこまで深く知り得ていたのかしら……」ともはや寒気がしてきます。現在の科学は、やっと賢治の感覚に近づきつつある段階なのかもしれません。しかも賢治は「愛」の人でもありました。つまり彼は「人間が知覚可能な範囲の宇宙の本質をほぼ完璧に捉えていた」と言っても過言ではないように思います(本作は、様々な「愛」を描いた物語でもあります)。

 話が逸れましたけれども、本作は「時間」に関して色々と考えさせられる作品でした。

 ちなみに私は宇宙を「開発」出来るなどとは到底思いません。また運よく地球に似た惑星が見つかったとしても、移住が簡単に成功するとも思いません。自分たちの肉体がどれほど繊細で弱く、儚く、且つ急速な変化に対応しにくいものであるのかということを、知っているからです。

 ですから地球という母体を破壊しつくし、そこを捨てて宇宙へと逃走するなどということを考えるのではなく、地球にとっての癌細胞である自分たち人間の動きをコントロールすることこそを、まずは懸命に考えるべきではないのかと、本作を鑑賞し思いました。

 色々と思いを巡らせることの出来る楽しい作品でしたし、今後学んでゆきたい分野を整理するための実り多き時間にもなりました。
 と、思い浮かんだことを纏まりなくダラダラと記してしまいましたが、最後に、ローズマリー・サトクリフの言葉を引用し、レビューを終えます。

今は夜明け前なんだ。だから暗い。
でも、ほら空に風が吹いている。
そう、あれが夜明けを告げる風かもしれない。
だから、ガリアに逃げるのはやめて、
ここブリテンの地にとどまろう…。

『夜明けの風』より


印象に残ったセリフ

主人公「ユーモアのレベルは?」 
TARS「100%だ」 
主人公「75%に下げてくれ」

 自分も今後のレビューにて、ユーモアのレベルを75%まで下げようと思いました(正直のレベルに関しては、主人公&TARSと同じく90%を保ちます)。


追記(2020/05/09)〖ブラックホール等に関する個人的なメモ〗

 ●事象の地平線=未来永劫、絶対に確認不可能な領域?
 光を含むすべての物質が行き来不可能であるため、観測自体が不可能。

 ●特異点定理(「特異点と裸の特異点」) ●「エルゴ球」と「慣性系の引きずり」に伴う時空の湾曲と重力の発生 ●潮汐力の働きにより肉体や物体に歪みは出ないのか 

 ●ペンローズ過程
 1969年ペンローズは、自転するブラックホールに工夫をしてゴミを投棄すると電力を得られるという論文を発表した[2]。これは、ゴミを容器に入れ、自転するブラックホールのエルゴ球と事象の地平線の間に投入し、ゴミをブラックホールに捨てて容器のみを回収すると、質量とエネルギーの等価性によって「ゴミの質量+ブラックホールの減少した質量」に相当するエネルギーが容器を加速させているため、ここから発電が可能というものであった。
エルゴ球とは、内部の粒子が回転する時空により不可避的に加速されるカー時空における領域であり、その内側ではロケットの噴射などのいかなるエネルギーを用いても物体は静止状態にはいられない。このため、その外側の境界は「静止限界(static limit)」と呼ばれる。これは、ブラックホールの自転に時空が影響を受けているためである(「慣性系の引き摺り」または「時空の引き摺り」という)。ここにゴミを入れた容器を投入し、容器は無限遠まで脱出できるだけの運動量を保ち、放ったゴミが事象の地平線の向こうへと落ちるようにすると、容器はもともとエルゴ球内に入った時よりも多くのエネルギーを持つ場合がある。この過程の結果をまとめると、ブラックホールは角運動量を失い、この角運動量に対応するエネルギーがブラックホールから取り出されたことになる。

wikiより

 ●ポアンカレ群 ●4次元の立方体(正八胞体) 

 〇「彼ら」はどのようにして、ブラックホール内に4次元空間を用意したのか。

 〇実際の4次元空間の中にて肉体の正常な運動(活動)を維持し続けることは可能か。

 〇重力波を利用したと考えられるクーパーとマーフの交信は、物理的に可能か。

 〇ネッカーの立方体について

 〇「重力」による時間の遅れ。一般相対性理論による。

 〇「速度」による時間の遅れ。特殊相対性理論による。

 〇地球以外の惑星において地球の生命が、その生態を維持、又は変化させることは本当に可能であるのかどうか(たとえ地球に似た惑星に移住しても、変化→適応には時間を要するため、問題が発生した場合には対応出来ずに「短期間での全滅」が妥当なのでは?)。

 〇クマムシの生態維持の方法(DNAの断片化と他遺伝子の取り込み【細菌(16%)、菌類(0.7%)や植物(0.5%)、古細菌(0.1%)、ウイルス(0.1%)】、および無性生殖に関して)。

 〇人間が母体である地球を自ら破壊しつつ惑星間移動を試みるのは、ウイルス等が新たな母体へと生息域の拡大を試みる過程と似たようなものか。


【その他】メモ
 ファーストシーンの宇宙船の色が黒と白の意味って、ラストでちゃんと回収されてたんだ……。
 そしてファーストシーンから2つの惑星と「愛」は、その時点ではわからないように、既に描かれていた……。
 作品タイトルが2台の宇宙船の間のスペースに浮かび上がるのは、タイトルの意味も全部加味してのことだったなんて……。
 しかしそれなら終盤にてクーパーとマーフが本棚越しに交信しているときに映った、黒の宇宙船のクローズアップの意味は何なのか。


レビュー 再鑑賞時(2020/09/18 IMAXにて)


ファーストシーン
 再鑑賞では約10~15秒ほどのファーストシーンにとても惹かれました。
 結論から記してしまうとファーストショットは、「時空が相対的であること」を表現しているように思いました。以下にその理由の説明を試みます。

 冒頭、カメラが「奥から手前」とも「左から右」とも言える絶妙な斜めの角度にてスライド撮影をしてゆきますが、その動きに、過去から未来への「動きによる流れ(速度)」を感じました。
 
 砂埃が上から下へと舞い落ちて(落下して)いるのには「重力」を、そしてそれが降り積もり(堆積して)いるのには「時間」の存在を感じました。

 また「時間」に関しては、もう一つ表現があったように思います。
 冒頭直後の画面においては左半分にしか砂埃は舞い落ちておらず、右半分には砂埃はありません。しかし作品のタイトルが表示されるくらいのタイミングにて、画面右半分にも砂埃が舞い落ち始めます。その際に一瞬だけ画面全体が砂埃の舞う状態となりますが(砂埃の量は右側の方が少なめです)、カメラがスライドし続けることにより、やがて砂埃は最初の場面と同じように、画面左半分に砂埃が舞い落ち、右半分には無い状態となります。私にはその表現が、砂埃の舞い落ちる面積とその範囲により「時間」を表現しているように見えました。

 ふと思ったのが、なぜ「時間」の表現として受け取ることの出来る演出が2つもあるのか、ということです。そしてそう思ったときにポンっと頭に浮かんだのは、それらが「重力」に関わる時間の表現(一般相対性理論)と「速度」に関わる時間の表現(特殊相対性理論)の画的なメタファーなのかもしれないということでした。

 画面の背景には書棚があり、書籍がびっしりと並べられています。
 書籍は過去の人々の残した情報を未来の人々へと引き継ぐために生み出された道具であるということを考えると、命や知性等を「引き継ぐ(繋ぐ)」ということの象徴なのかもしれないと感じました。また書籍は時間(過去)が封じ込められている物でもあります

 並べられた書籍の手前のスペースには、2台の宇宙船の模型が置かれています。
 一つは画面の左側に置かれている、遠い昔にSF小説で描かれていたような宇宙船の模型。もう一つは画面の右側に置かれているスペースシャトルの模型です(想像【力】と現実【実際の科学】の両方を用いて物語を紡いでゆきますよという意味合いもあるのかしら)。それらは向かい合うように置かれており、しかも両機体とも進行方向が書籍の方へと向くように斜めに角度がつけられております。私にはその角度は偶然ではなく必然として感じられました。というのは、物語のラスト付近にて、その並んだ書籍の裏側に位置する場所に、5次元に設けられた3次元空間(四次元立方体)が設置されていることが明かされ、書籍にて隔てられた別々の次元に居るクーパーとマーフは本棚の書籍の動きを利用することにより、時間と空間を超えて交信を果たすからです。
 また、SF小説で描かれていたような宇宙船と、スペースシャトルの両機体の間には空間的なスペースが設けられていますが、カメラがスライドしてそのスペースが丁度画面の中央部分に位置したときに、タイトルである『Interstellar』の文字(色は「白」)が、スペースに美しく当てはまる形にて浮かび上がります。
 ※宇宙船の模型の色は、黒と白で、「闇と光」「重力と無重力」「陰と陽」「0と1で構成されるデジタルの世界」等、様々なことを連想させます。

 冒頭の宇宙船の模型はそれぞれ、過去から未来へ、未来から過去へと向かっている感じにも見えるように配置されていること(しかし最終的にはスペースシャトルの上にも砂埃が舞い落ちることにより、両機とも過去の世界のものとして表現されているように思います)。作品タイトルが表示された後もカメラが画面の手前&右方向へと一定の速度を保ちスライドし続けること。カメラがスライドした先の空間には宇宙のように何もない闇(まだ何も起こっていない時空=未来が生まれる可能性を秘めた時空)があること。ファーストシーン以前の場面の色彩がモノクロであること、ファーストシーンの終わりまで音楽が反復すること(セカンドシーンに入ると変化します)、風の音にて始まり、その音がファーストシーン以降も途切れずにシーンを跨いで流れ続けること、そして映画のセカンドシーンは年老いたマーフが過去を語る場面であること。
 さらにそれらの情報に上記してきたその他のいくつもの情報の意図をプラスして全体の情報を組上げると、最初に提示した結論が思い浮かんだのでした。

 というわけで、開始10~15秒程度のファーストシーンの時点で、私の脳味噌はにゃにゃにゃにゃにゃん!とフル回転なのか空回りなのか、もう自分でも何がなんだかよくわからない動きを開始し、『Interstellar』という物語のブラックホールの中へと吸い込まれていったのでした(映画館の魔法によるものと思います)。
 その後の「クーパーが悪夢を見る」⇒「ベッドから起きて窓の外を見る」までの一連のシーンやセリフも象徴的でしたので語りたいのですけれども、ファーストシーンの10~15秒程度についての記述でも上記の惨状につき、カット。

 
 【マン博士について
 初見には全く気が付きませんでしたけれども、名前が「人類」という意味も持つマン博士。今回はその身勝手で利己的な行動に対し、同じ人類として色々思うところがあり、自分の過去を顧みて恥ずかしくなってしまいました。
 自分さえ良ければ……助かれば良い……というあの行動。それはきっと人類の大多数を占める人々の象徴。
 そのようなわけで今回の鑑賞においてはマン博士の存在を、前回よりもググっと楽しむことが出来ました(というか実は、マン博士の名前を記憶から完璧に消失しておりました。マン博士ごめんなさい)。


本棚の書籍について
 映画館の大画面で鑑賞したことにより登場する書籍のタイトルを知りたくなり、調べたのですけれども、結局特定することは出来ませんでした。
 悔しかったためネットを調べてみると、こちら⇩のとても素晴らしい記事に出会いましたのでペタリンコさせていただきます。


ディラン・トマスの詩

 ディラン・トマスが病床のお父様に向けて綴った詩だそうです。
 「夜」とは「死」、「光」とは「生or命」のことでしょうか。

『Do Not Go Gentle Into That Good Night』 Dylan Thomas

Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day
Rage, rage against the dying of the light.

Though wise men at their end know dark is right,
Because their words have forked no lightning they
Do not go gentle into that good night.

Good men, the last wave by, crying how bright
Their frail deeds might have danced in a green bay,
Rage, rage against the dying of the light.

Wild men who caught and sang the sun in flight,
And learn, too late, they grieved it on its way,
Do not go gentle into that good night.

Grave men, near death, who see with blinding sight
Blind eyes could blaze like meteors and be gay,
Rage, rage against the dying of the light.

And you, my father, there on that sad height,
Curse, bless me now with your fierce tears, I pray.
Do not go gentle into that good night.
Rage, rage against the dying of the light.

『あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない』
ディラン・トマス 鈴木洋美 訳 

あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

賢人は死に臨んで 闇こそ正当であると知りながら
彼らの言葉が稲妻を 二分することはなかったから 彼らは
あの快い夜のなかへおとなしく流されていきはしない

彼らのはかない行いが緑なす入江で どれほど明るく踊ったかも知れぬと
最後の波ぎわで 叫んでいる善人たちよ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

天翔ける太陽をとらえて歌い
その巡る途中の太陽を悲しませただけだと 遅すぎて悟る 気性の荒い人たちよ
あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない

盲目の目が流星のように燃え立ち明るくあり得たことを
見えなくなりつつある目でみる いまわのきわの まじめな人たちよ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

そしてあなた ぼくの父よ その悲しみの絶頂で
どうかいま あなたの激しい涙で ぼくを呪い祝福してください
あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

松浦暢編『映画で英詩入門』(平凡社、2004)より


ブラックホールについて最新の仮説

 (レビュー当時)最新のブラックホール理論の記事をペタリンコ。
 本作にて描かれていたブラックホールの理論よりも、理にかなっている仮説のように思いますけれども、いかがでしょう。


愛について
 ①マン博士とエドマンズ博士のどちらの惑星を優先すべきかの議論の場面でのやり取り。

ブランド「正直な気持ちに従いたいの。私たちは理論に縛られすぎていた」
クーパー「君は科学者だ」
ブランド「聞いて。だって愛は人間が発明したものじゃない。愛は観察可能な力よ。何か意味がある」
クーパー「愛の意味か?子孫繁栄に……」
ブランド「死んだ人への愛も社会の安定なの?」
クーパー「いいや」
ブランド「愛には特別な意味がある。私たちはそれをまだ理解していないだけ。これは手がかりなのかも。私たちは感知できない高次元につながる10年も会っていない人に銀河を超えて引き寄せられている。おそらくもう死んでいる人に。愛は私たちにも感知できる。時間も空間も超えるの。愛が未知の力でも信じていいと思う」

 ②四次元立方体の中にて

クーパー「だから俺らがここにいる。マーフに伝えるために」
TARS「どうやって?」
クーパー「愛だよ、愛。愛が観察可能なら、何かで数値化できるはずだ」
TARS「方法はあるのか?」
クーパー「必ずある」
そしてクーパーは、時計でモールス信号を送ることを思いつく……
TARS「クーパー、彼女が部屋に戻らなかったら?」
クーパー「あの子は必ず戻る」
TARS「なぜ戻るとわかる?」
クーパー「俺が渡した時計だ」

 本作のテーマの中心は「愛」。

 愛とは科学的なものか、宗教的なものか。その両方に属するものか、いずれにも属さないものか。そもそも愛は存在するのか……

 ちなみに私は、愛の存在を信じておりません。

 科学的に証明することの出来ない現象であり、人間の五感では確認できない感覚です。愛は、ありもしないものを人間がその願望を言葉に託して生み出した魔法や錬金術のような、妄想や嘘の類。そう思っています。

 にもかかわらず、私は愛という言葉が大好きです。

 身近な人の体温に触れた時。一緒に暮らす猫の体温を感じるとき。本や映画等にて思いの籠った言葉や映像、そして音に触れた時。素敵な音楽に出会ったとき。自然の中にて心地よい時間を過ごしている時。星空を窓から眺めているとき……。そんな時に、愛という言葉を思い浮かべます。そして気がつくと、笑顔になっています。

 本作においては、ブランドの愛の直感は正しかった。そしてクーパーのマーフへの愛の直感もまた、正しかった。それゆえに私は、本作が好きです。粗も多い作品かもしれませんけれども、なんとか目に見えない愛を表現しようと試みたところに、惹かれます。

 「過去を変えるために呼ばれたのではない」というセリフの裏には、「未来をより良くするために呼ばれたんだ」というセリフが、語られずとも存在しているように思います(愛と同じようにたとえ見えなくとも)

 私は、愛を信じてはいません。
 しかしこれからも愛を探し、求めてゆきます。そしてその表現を試みる人間であり続けたい。

 『Interstellar』が、そう思わせてくれました。


セッティングの変更
 再鑑賞したことにより、自分のセッティングを前回のレビューから変更しようと思います。正直のレベルは、95%に。
 しかしユーモアのレベルは、75%を維持したいと思います(もし60%になってしまったら筆を折ります。「くだらないことばかり言ってるから55%にすべき」って言われたら、自爆の秒読みを開始します)。

 ちなみに「愛」のレベルは、「IMAX(愛まっくす💕)」にて鑑賞しましたゆえ、もちろん100%です。

追記(2020/10/21)
 
町山智浩氏がノーラン監督にインタビューした際、ノーラン監督は「インターネットは好きじゃない。ネットのせいでみんな本を読まなくなった。書物は知識の歴史的な体系だ。ネットのつまみ食いの知識ではコンテクストが失われてしまう。だから、『インターステラー』では、父が娘に思いを伝える道具に本棚を使ったんだ」と語ったとのこと。

 冒頭本棚の書籍の一部
 ・『五次元世界のぼうけん』 マドレイン・ラングル
 ・『時の矢ーあるいは罪の性質』 マーティン・エイミス



Soundtrack

Interstellar Main Theme - Extra Extended - Soundtrack by Hans Zimmer


Artwork

※好きなもののみ。最後に記載したデザインが一番好きです





















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