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書籍『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学 2』

ノーム・チョムスキー (著) エドワード・S・ハーマン (著) 中野 真紀子 (翻訳)出版社 トランスビュー
発売日 2007/2/2
単行本 414ページ



目次

第五章 インドシナ戦争1-ヴェトナム
1.メディアの「反米的なカルチャー」
2.論争の限界
3.愛国的な前提
自由をもたらすための侵略住民の安全のための無差別爆撃南ヴェトナム攻撃は存在しない
4.メディアの無思慮な服従
破られたジュネーヴ協定
内部侵略に「抵抗」するアメリカ
5.残虐行為の報道
「すみやかに彼らを殺して楽にしてやった」
報道されない南ヴェトナムの破壊
メディアの裏切り、というつくり話
6.いくつかの重大事件の見方
トンキン湾事件のニュース統制
テト攻勢に関するフリーダムハウスのテーゼ
パリ和平協定を踏みにじる
7.何のためのヴェトナム戦争
ヴェトナム症候群を克服せよ
「破壊はお互いさまだった」
真実からいかに目をそらすか
インドシナ全体の破壊が目的
報道の「バランス」

第六章 インドシナ戦争
-ラオスとカンボディア-
1.ラオス、音のない世界
「サイドショー戦争」
「秘密戦争」の成果
月面の風景

2.カンボディア、「優しい国」の虐殺ジェノサイド
ジェノサイドの十年
誰がどれほど殺したのか
「優しい国」という神話
第一期のアメリカによる破壊
第一期のメディア報道
難民の声は聞かれない
「記憶は解答となる」のか
第二期のポル・ポト時代
第三期のカンボディアとヴェトナムの関係
西側の沈黙という突飛な主張
理性的な結論

第七章 プロパガンダ・システムとメディア
服従の範囲内での独立
メディアは自らの判断で奉仕する
プロパガンダ・システムに対抗するもの

補遺
補遺 3

原注

訳注

訳者あとがき

 


内容紹介

 ベトナムからラオス、カンボディアへ拡大するインドシナ戦争の実態を、マスメディアはいかにして書き換え、捏造したか。 
 「中立公平」を装うメディアが、必然的にプロパガンダに陥る仕組みを解明する現代メディア論の傑作。


レビュー

 「訳者あとがき」が素晴らしいため、以下にほぼ全文を引用いたします。

 ジョージ・オーウェルの『動物農場』は、スターリンの全体主義体制の絶妙な風刺であると一般に受けとられている。それはそのとおりなのだが、見落とせない事実がひとつある。じつはそこには、出版社が採用を拒否した序文が付されていた。オーウェルがそこで論じたのは、自由主義を標榜するイギリス社会においても、自主規制のかたちで思想統制はおこなわれているということ、またその背後にあって、それを正当化している思想は、異なる意見の表出に対する不寛容という点では、全体主義とさほど違わないということだった。その一部を読んでみよう。
  
 自由とは、ローザ・ルクセンブルクが言ったように、「相手にとっての自由」なのだ。「貴君の発言には辟易していますが、それでも貴君がそれを言う権利だけは、命にかえてもお守りします」というヴォルテールの有名なせりふにも、同じ原則がつらぬかれている。知的自由という、西洋文明を際立たせてきた特徴に意味があるとすれば、それは、自分が真実だと思うことを口に出し、出版する権利をだれもが持っている、ということだろう――そのために共同体の他の人々に、あきらかな危害が及ぶのでないかぎりは。資本主義体制の民主主義も、欧米型の社会主義も、最近までこの原則を当然とみなしてきた。イギリス政府は、いまもそれを尊重する姿勢を誇示している。一般庶民も、不寛容の推進にはあまり興味がなく、たぶんぼんやりと「だれにも自分の意見を持つ権利がある」と思っているだろう。問題なのはもっぱら、書物や自然科学に通じたインテリたちだ。こういう、まさに自由の後見人たるべき人々が、理論においても実践においても、自由を軽視しはじめているのだ。
 現代に特有の現象が、自由主義者の変節だ。「ブルジョワ的自由」など幻想だとするマルクス主義の主張にあきたらず、いまや民主主義を守るには全体主義の手法が不可欠だとする風潮が広まっている。民主主義を尊ぶなら、手段を選ばず敵を壊滅せねばならないというのだ。では敵とはいったいだれのことか。民主主義を公然と意識的に攻撃する者だけではなく、誤った思想を流布して「客観的」に民主主義を危うくする輩も、つねにそこに含まれているらしい。つまり、民主主義の擁護には、独立した思想を撲滅することが含まれるのだ。そういう議論は、ソ連における粛清を正当化するのにも用いられた。筋金入りのソ連びいきは、粛清の犠牲者がみな告発どおりの罪を犯したとは信じていない。むしろ彼らの異端的な意見が「客観的」に体制を脅かしており、ゆえに抹殺するだけでなく、偽りの罪を着せて信用を貶めるのがふさわしいとみなしているのだ。……こういう人々は、全体主義的な手法を奨励すれば、やがては同じ手法が自分に対しても用いられるかもしれないことがわからない。ファシストを裁判ぬきで牢屋にぶち込むのを習慣にすれば、ぶちこまれるのはファシストだけにとどまるまい。

 ―オーウェルが提案した序文「(イギリスにおける)言論出版の自由」                          (he Times Literary Supplement, 15 September 1972)

 民主主義が高度に発達した「自由主義社会」において、全体主義国家にひけをとらぬような思想統制が行なわれているなどということが、いったい本当にありうるのだろうか。検閲制度も、取り締まる法律もない自由な社会において、具体的にどのようにして思想統制が行なわれるというのだろう。それを知るには、自由主義市場におけるマスメディアの制度機構を、構造的に分析することが必要だ。チョムスキーとハーマンは主にアメリカのマスメディアを参照して、体制側エリートが率いる誘導市場システムとしての「プロパガンダ・モデル」を考案し、実際のメディアの反応にあてはめて、その有効性を検証している。

 商品としての視聴者
 自由市場におけるマスメディアの行動を考えるにあたって、本書はまず、マスメディアは大企業であるというところから出発する。しかも寡占化の進んだ業界を支配する少数の独占的な巨大企業である。その行動様式は他業界の企業と変わるところはなく、基本的には商品を生産し、販売することで利益を得ている。ただしマスメディア企業の場合、生産するのはニュースや娯楽番組だが、販売する商品は、それにひきつけられた視聴者である。テレビ局の場合、それぞれの購買力や消費パターンによって細かく階層分けされた視聴者(という商品)を買うのは、広告主という大企業である。彼らの選択がメディア企業の業績を決定するため、その意向が番組のラインアップや内容を大きく左右する。視聴者の意見が反映されるのではない。このビジネスモデルにおいて、視聴者は番組の消費者ではあっても買い手ではなく、したがって影響力を行使する余地は小さい。新聞にしたところで、広告収入が大きな位置を占めるため、購読収入だけにたよる経営は競争力を持ちえない。ここでも自由市場が生み出すのは、購読者の選択が決定権を持つ中立的なシステムではなく、広告主の選択がメディア企業の浮沈を決定するしくみだ。
 自由市場のもとでは、受動的な存在にとどまり、与えられるものをたえまなく消費することこそが、大衆に期待される役割なのだ。法律は「言論の自由」を保障しているが、その権利が行使できる場は公共の手からもぎとられ、高値で落札したものの私物となる。アルンダティ・ロイが言うように 、ネオリベラル資本主義は、たんに資本の(少数者による)蓄積だけでなく、権力や自由の(少数者による)蓄積をうながす制度であり、そこでは「言論の自由」も、「正義」や「人権」や「飲料水」や「清浄な空気」と同じように商品となり、金を払えるものだけがそれを享受する。「言論の自由」を買いとったものは、それを使って、自分たちの目的にそった「世論」という製品を製造し、流通させる。それが厳密にどのようなプロセスを踏んでおこなわれるか、それをつきつめるのが本書の主旨である。
 
 協力から生まれたメディア論
 本書、Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media, Pantheon Books は、1988年に初版が出たが、2002年に改訂された新版は、54ページにおよぶ新たな序文を加えて10数年の経過を織り込んだアップデート版だ。2人の著者、エドワード・ハーマンとノーム・チョムスキーは長年にわたる協力関係にあり、これ以前にも2巻にわたる共著Political Economy of Human Rightsを70年代末に出版しており、ワーナー社によって握りつぶされた小品を別にすれば、本書は第3冊目の共著となる。当時たまたま2人とも、メディア関係の本の出版企画を抱えていたことから、これを一本化して互いのアイディアを補填しあい、相乗効果を追求しようという案が浮かび、結果的にそれぞれのもとの企画より格段にスケールの大きい、優れたメディア論が構想されたらしい。
 じっさいの執筆分担については、ハーマンの説明によれば、序章や第一章、結論の部分はおおいに議論を重ねた完全な共著であり、ケーススタディについては、中南米と教皇暗殺計画(第二、三、四章)はハーマン、インドシナ戦争(第五、六章)はチョムスキーが、それぞれ中心となって執筆を担当し、相方は意見を述べる役割にとどまったそうだ。メディア業界の構造分析に基づいた「プロパガンダ・モデル」を考案し、メディアの(偏向した)行動を予測し、具体事例にあてはめてその精度を測るという手法は、経済学者であるハーマンの発想である。
 プロパガンダ・モデルに関しては、第一章に詳述されているのであまり深入りしないが、基本的には、マスメディアにプロパガンダの役割を演じさせる力や偏見を高めさせるプロセス、その結果生じるニュース選択のパターンなどを説明するために考案されたものだ。その核心をなすのは、なにがニュースに取り上げられるか(ひいては言説を支配し世論に影響するか)を決定する装置として、公表にふさわしい素材を選別する5段階のフィルターだ。すなわち、

(1)メディア企業の所有と支配の構造から生じる利益志向
(2)収入源を広告にたよることの影響
(3)政府や大企業など、お墨付きの情報源への依存と、権力に奉仕する「専門家」の重用
(4)集中的な攻撃キャンペーンによるメディア統制
(5)国家宗教と化した「反共主義」

である。こうしたフィルター装置による呵責なき選別によって、既存体制の維持と強化に適するニュースだけが残される。このしくみにおいては、真実の報道をめざす個々の記者や編集者の真摯な努力も大勢に影響をあたえることはなく、むしろ中立性の見かけを与える補完的な役割をはたすのがおちである。
 第二章から第六章までは、このプロパガンダ・モデルの有効性を、具体的な事例にあてはめて検証するためのケーススタディである。おおまかに分けて、中米、南欧と東欧、インドシナという三つの地域について、1960年代から80年代にかけて(新版序文のアップデートを含めれば90年代にも)起こった出来事と、そこにおいてアメリカがはたした役割をとりあげ、アメリカのメディアがそれをいかに報道したかを、執拗なまでに徹底的に検証している。その手法は、『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』、『ニューズウィーク』、「CBSニュース」という、アメリカを代表する四つの主流メディアの記事を網羅的にサンプリングし、一定期間のうちになにが掲載され、なにが掲載されなかったかを綿密に調べるという、気が遠くなるような作業である。
 MIT (マサチューセッツ工科大学)の研究室に膨大な切り抜きを収めた資料庫があるのを映像でみたことがあるが、コンピュータ化以前の(もちろんGoogleもない)時代に、個人の努力でこれほどのことをなしえたことには、驚嘆すると同時におおいに勇気づけられる。チョムスキーもハーマンも、けっしてジャーナリストやインサイダーとして情報にアクセスできたわけではなく、正確で膨大な彼らの知識は、基本的にメディア(オルターナティブを含む)を介した二次情報の丹念なチェックの結果だからだ。彼らほどの天賦の才はないにせよ、一市民としてのわたしたちも、自からの思考と好奇心を働かせることによって、マスメディアがつくり上げる虚構の網から逃れることができるはずだ、と思わせてくれる。
 そうしたサンプリング分析から浮かび上がるのは、マスメディア報道の、まさにオーウェル的な特質である。80年代の中米のエルサルバドルやグアテマラでは、アメリカで反ゲリラ戦の訓練を受けたテロ組織をつかって、内乱鎮圧の名のもとに、一般市民の拉致と殺人(国家テロである)を常套的な政治手段とする残虐な親米軍事独裁政権が、めまぐるしく交代したが、アメリカのマスメディアにそのような歴史は存在しない。メディアはこうした独裁者を好意的に描き、彼らへのアメリカの援助が議会で承認されるよう協力する。クーデターで新たな親米政権が登場するたびに、メディアは新政権を持ち上げる。「ここには明らかに、法則に近い一貫したパターンがある。アメリカ政府が「建設的な関係」を築きたいと考えるテロリスト国家の場合、ものごとはいつでもうまくいっており、事態は改善しつつあるとされる。けれども、いったん政権が崩壊すると、その記録は過去にさかのぼって悪辣なものに書き改められ、新たに権力を握った人物の人道的で思いやりのある性格に比べれば、極悪なものに映るように変形される。テロリストの代替わりごとに、後継者へのそっくり同じ弁護と、失脚者への遡及的な中傷がくりかえされる。」(本書の第一巻176~177頁)。
  
 新型の戦争概念
 60年代からアメリカが直接の軍事介入をしたインドシナにおいては、「戦時体制」におけるメディアがどこまで露骨に国家に奉仕するために虚構をつむぎだしたかが示される。端的に言って、アメリカは南ヴェトナムに傀儡政権を建て、それに抵抗する現地勢力を一掃するため軍事侵略をおこない、南ヴェトナムの農村を攻撃し、住民を大量に虐殺した。70年代には侵略対象をラオスやカンボディアにも拡大し、インドシナ全土を爆撃して数百万人の死者を出し、国土を荒廃させ、長期にわたる壊滅的な損傷を遺した。
 だが「アメリカの侵略」という基本的な事実は、アメリカのメディアの歴史認識においては、今日に至るまで存在していない。彼らの認識では、あくまでもアメリカは「南ヴェトナムを防衛」していたのであり、それに抵抗した南ヴェトナムの大多数の住民たちは、「敵の勢力範囲」とされ、南ヴェトナム人とはみなされなかった。こうした転倒した世界観に立った報道が垂れ流されるなか、アメリカ人の大多数は真実をありのままに見ることを許されず、「南ヴェトナムの村を救うために、それを破壊しなければならない」という倒錯した言辞さえ、まかり通るしまつだった。おまけに、戦時メディアのこれほど卑屈な体制への追従でさえも、支配エリートの目には不十分に映ったらしく、「メディアの裏切りが負け戦に導いた」という俗説が流布することになる。こんな主張をする人々が要求しているのは、冒頭に引用したオーウェルの言葉にあるとおり、全体主義的な絶対忠誠である。
 ケーススタディの各章は別々の地域・時代に起こった歴史的事件をあつかっているが、それらのあいだに有機的なつながりを見て取ることもできる。そこに一貫して流れているのは、反ゲリラ戦争、国際テロ戦略などと呼ばれる、新型の戦争概念の発達と宣伝であり、そのポイントは従来の国際戦争法規に拘束されない(つまり非戦闘員を攻撃し、民生施設を破壊し、戦争捕虜の人権をみとめない)ことにつきる。9・11以降、ブッシュ政権が推進してきた「テロとの戦争」のロジックや手法は、すでにみな出そろっており、敵とされるものの前提が、共産主義者からイスラム原理主義の国際テロネットワークに代わっただけのようだ。
 その転換点のひとつは、メディアによる架空の陰謀の捏造を描いたブルガリア・コネクションの章で、背景として登場するエルサレムのヨナタン研究所の創設であり、ここで開催された1979年の国際会議が、アメリカとイスラエルがそろって国際テロの脅威を声高に討えはじめる契機となった。左派から転向したいわゆるネオコン勢力が台頭するのも、この時期からだ。
また60年代のヴェトナム戦争時代にみられた、住民の抵抗を防ぐために彼らを「戦略村」に追い込み、自警団を編成して監視するという手法は、50年代のマレーシア植民地におけるイギリスの政策を手本にしたものであり、さらにその源流は30年代に成立した満州国にあったようだ。これが80年代の中米でもふたたび採用されており、反ゲリラ戦がじつは植民地戦争の延長であることを示唆している。これらはみな、第二次大戦後のアメリカの外交政策は、共産主義からの防衛というイデオロギーの陰で、実際には第三世界を間接的な植民支配下に置き、資源をコントロールすることを主な目的としていた、という見方に合致する。
 ただし、こうした考察は本書の目的ではない。本書のケーススタディは、あくまでもプロパガンダ・モデルの有効性を測るためのものである。ここで論じているのは、事実そのものの真偽ではなく、それについて知りえた情報(真偽はどうあれ)をマスメディアがどのように伝えたかという問題なのだ。それぞれの事例については、二人の著者が共同あるいは個別に著わした別の著作が存在しており、事実関係や著者たちの解釈の妥当性を論じる目的であれば、そちらを参照すべきである。

 オルターナティヴ・メディアとパブリック・アクセス
 マスメディア論の古典的な名著として、本書はいまも多数の読者を得ている(Amazon.comのサイトをみればチョムスキーの多々ある著作のうち、つねにベスト5に入っている)。その影響をはかるすべはないが、一つ挙げるならば、この本に感銘を受けたカナダの映像作家が、メディア論を中心にチョムスキーその人を描くドキュメンタリーの制作を思い立ち、寄付を中心に多大な資金の調達に成功し、数年にわたってチョムスキーを追跡し、膨大なフィルムを消費して完成させたことがある。1992年に完成した映画『チョムスキーとメディア』は、独立系のドキュメンタリーとしては異例の興行成績をおさめ、世界中で数々の賞を受賞した大傑作となった(この映画も、ようやく日本でも公開されることになった)。
 この映画が大成功を収めた背景には、60年代からカナダやアメリカで広まった独立系メディアの運動と、彼らの草の根的なネットワークが受け皿として存在していたことが指摘される。北米ではケーブルTVの普及に伴って、パブリック・アクセスとかコミュニティ・チャネルと呼ばれる概念が発達した、私企業であるケーブル会社は、公共のものである道路の脇を利用してケーブルを敷設し、営利を追求する見返りとして、住民に一定チャネルを開放し、住民が自ら番組を制作・放送できるよう、設備やノウハウを提供するという取り決めである。これにより、住民の手作りによる情報発信の可能性が飛躍的に向上した。ここで重要なのは、パッケージ化された編集済みのニュースを届ける従来型のマスメディアが、大衆を受動的な存在にとどめておこうとするのに対し、パブリック・アクセスは、大衆に発言力を与えて能動化するものだということだ、それが保障するのは、マイノリティや女性など、従来型のマスメディアではおおむね客体化され、代弁されてきた人々が、みずからの声をとどける能力である。常に主流社会の支配的な価値観をとおして解釈され、描かれてきた人々が、直接発言すること、異なるものの見かたや価値観を尊重し、議論を活性化することが、オルターナティヴ・メディアの本質であろう。
 マスメディアが民衆を現実から隔離して、管理された別の現実の中に囲い込むのは、かれらの素朴な意見が専門家の決めた政策に影響を及ぼすのを避けるためだ。一般大衆は、つねに利己的で残酷であるとはかぎらないので、真実を知れば良心に従った行動をとるかもしれないからだ。そうしたマスメディアの統制を逃れるためには、テレビや新聞に代わって、自分の感覚をたよりに、世の中を筋の通ったものとして理解しようとする努力が必要だ。マスメディアが伝えないニュース、そこから人々の目をそらせようとするものに、耳をすます必要がある。

(中略)

 これを書いている現在、国会ではマスメディアの沈黙に守られて十分な議論もないままに、教育基本法「改正」が強行採決されようとしている。ふたたび住民の精神を「恭順な国民」の鋳型にはめて、祖国への奉仕に動員しようとする、時代を逆行するような動きが急速に強まるなか、わたしたちの声をとどけるメディアを自分たちで確保することは、これまで以上に切実な問題となってきた。その意味でも本書は、まさに今こそ多くの人に読まれるべき本である。ここに描かれたマスメディアのありようは海の向こうのものではあるが、日本の権力者たちがそこから学んでいないことなど、まずありえないのだから。

2006年12月 中野真紀子

本書「訳者あとがき」より
 

 これほど見事な「あとがき」を記すことの出来る翻訳者はそうはいらっしゃいません。
 もちろん翻訳も素晴らしいです。感謝。

 世界的な、そして普遍的な名著の中の名著。
 おすすめです。

 
 
 


 



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