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書籍『正義と差異の政治』

アイリス・マリオン ヤング (著), 飯田 文雄 (翻訳), 〓田 真司 (翻訳), 田村 哲樹 (翻訳), 河村 真実 (翻訳), 山田 祥子 (翻訳)
出版社 法政大学出版局‏
発売日 2020/9/28
単行本 402ページ



目次

謝辞

序章

第1章 分配的パラダイムを置き換える

第2章 抑圧の五つの側面

第3章 反乱と福祉資本主義社会

第4章 不偏性と公民的公衆の理想

第5章 身体の序列化とアイデンティティの政治

第6章 社会運動と差異の政治

第7章 アファーマティブ・アクションと能力という神話

第8章 都市生活と差異

エピローグ 国際正義

訳者あとがき
参考文献
索引

法政大学出版局 公式サイトより


内容紹介

 自分と異なる他者への嫌悪や抑圧は、差異を取り除き、同一にすればなくなるのだろうか。正義の分配的パラダイムの限界を指摘し、性や人種、年齢や文化などの差異を認知して肯定する都市の公衆と民主主義にこそ、著者は希望を見いだす。差異と正義に関する社会的・規範的な理論としてもはや古典とされる、政治哲学者ヤングの主著ついに翻訳。

法政大学出版局 公式サイトより


レビュー

 ほぼ「引用」を用いてレビューいたします。
 また本書は30年以上前に出版された書籍(の翻訳)となりますゆえ、今では様々な分野にてさらに研究が進み、より価値のある発言が成されている箇所もチラホラ見受けられます。しかしながら本書には普遍的な価値を持つ発言が多数収められており、それらの価値は色褪せるどころかその輝きを増しています。
 というわけで以下にてそのほんの一部を紹介させていただくわけですけれども、その際の引用は第7章「アファーマティブ・アクションと能力という神話」に焦点を絞り、私が個人的に学ぶところの大きかった部分を選択する形にて行うものといたします。

アファーマティブ・アクション


 不正義は、分配の観点からではなく、まずもって抑圧と支配の観点から定義されるべきである。人種差別と性差別は、私たちの社会における主要な抑圧の形態であるが、人種とジェンダーの不平等についての哲学的議論は、多くの場合、機会の平等という問題に限定される傾向がある。

267~268頁

 ヒエラルヒー的な分業の内部では、能力を評価する側の人々は、評価される人々よりも通常は上位にあって、相対的に特権的な地位を占めている。その人たちの評価基準では、従順の規範が強調されることが多い。この規範は、技術的能力や実績だけを中立的に評価するよりも、むしろ既存の特権やヒエラルヒー、従属といった関係の円滑な維持と再生産に貢献する。さらに、私たちの社会における特権ヒエラルヒーは、明らかに人種、ジェンダー、その他の集団的差異によって構造化されているため、評価する側の人々は、ほとんどの場合、白人で異性愛者で健常者の男性であり、彼らの評価対象の人々は他の集団に属している。

286頁

ヒエラルヒー


 自由民主主義の社会では、教育は、すべての集団に平等な機会を提供するための手段として理解されている。しかし、教育がそのような平等を実現するという証拠は存在しない。これまで何十年もの間、教育者たちは嘆いてきたが、教育システムは、階級や人種、ジェンダーのヒエラルヒーを確実に再生産してきた。教育者たちは、誤って次のように信じている。すなわち、学習を続けることが人種やジェンダーを理由として妨げられず、原則としてすべての生徒が同じカリキュラムを受け、同じ基準で評価されるならば、教育機会の平等がもたらされるのだと。学校は、異なる学習上のニーズに十分に注意を払わず、生徒の成績が悪ければ、親や生徒のせいにする。アメリカの多くの地域で、学校は依然として人種によって分離されたままである。学校がジェンダーや人種に関するステレオタイプを積極的に強化しているわけではなくても、学校が男女のふさわしい職業についての文化的に作られたイメージを訂正するべく対応したり、女性や非白人の学力を可視化したりすることは、一般的に言って非常に稀である。人種やジェンダーによる深刻な格差は、中学校や高校の数学と科学の学習と学力において根強いが、これらは高度技術社会において、特権的で高収入を得られるキャリアを追求するために最も必要とされる科目である。エレノア・オールは、黒人英語という、白人英語とは完全に異なる言語のために、科学や数学の授業を体系的に誤解してしまう子どもが存在すると論じている。このことは、黒人の子どもたちがこれらの科目において成績があまりよくなかったり、あまり関心を示さなかったりする理由のすくなくとも一端を説明する。同様の議論は、数学や科学の文化におけるジェンダー・バイアスについても行われてきた。
 富は、依然として主要な識別装置である。中間・上流階級の家庭の子どもたちは、貧困家庭や労働者階級の家庭の子どもたちよりも、よい学校に通う。したがって、その子どもたちは、大学入試のための競争に有利である。たまたま貧困家庭や労働者階級の家庭の子どもが大学に合格しても、その子どもたちは、学部の学費や、将来の特権的な地位を約束する大学院の学費を支払うことができないことが多いのである。
 ランドル・コリンズによれば、教育における学業成績と、仕事の実績や職業的な成功との間にはほとんど相関関係がない。学校が教えることの多くは、価値判断抜きの技術的なことではなく、恭順や忠実、権威への服従といった文化的価値や社会規範である。生徒たちは、どのくらい上手にある課題をこなせるかよりも、どのくらいこうした価値観や規範を内面化してきたかによって、評価されるのである。

287~288頁

 監視をおこなうヒエラルヒーの諸技術と規格化をおこなう判断の諸技術とを結び合わせるのが、テストである。それは規格化の視線であり、資格付与と分類と処罰とを可能にする監視である。ある可視性をとおして個々人が差異をつけられ、また判断されるのだが、テストはそうした可視性を個々人に対して設定するのである。それゆえ、規律・訓練のすべての装置のなかではテストが高度に儀式化されるわけである。権力の儀式と実験の形式とが、また力の誇示と真実の確率とが、テストの中に集まって結びつく。規律・訓練の諸方式の中心で、テストは客体として知覚される人々の服従強制を、また服従を強制される人々の客体化を表わす。

292頁

 専門労働と非専門労働との区別は、ある種の仕事を他の仕事よりも本質的に優れた価値のあるものと断定する文化帝国主義を確立する。

307頁

 民主的な分業は、専門家をなくす必要はないし、おそらくなくすべきでもない。専門職労働者と非専門職労働者の階級区分を弱めるということは、したがって以下のことを意味する。第一に、特権は、それが給与、自律性、労働規則、資源へのアクセスという形で、地位や名声のみに基づいて専門職に付随している場合、間違っている。第二に、熟練をあまり必要としない仕事から熟練を要する仕事への移動の可能性は、誰にでも開かれているべきである。「将来性のない仕事」などというものはあってはならない。ただし、ひとつの仕事にとどまることも不名誉となるべきではない。業務を通じた能力開発や職務レベルの向上の機会は、先進産業社会の典型的な労働構造におけるよりも、一層広範に開かれるべきである。さらに、専門職労働者や管理職は、ライン生産やサービス提供といった現場の経験から自らの職業人生を始めるべきである。さらに、専門職労働者や管理職に適度な製造業務や保守作業を割り当てれば、少なからずよい結果が得られるかもしれない。専門技能の向上のために長期間にわたる学校教育が必要な場合、教育費は無料で、できる限り望むすべての人に門戸を開くべきである。最後に、専門技能や知識を持つ人々は、労働者や地域に対して説明責任を負わなければならない。専門家は専門知識を提示し普及すべきであり、それは意思決定に必要不可欠である。しかし、専門家は自らの専門知識を根拠に決定を下す権威を主張することはできない。技術の使用、情報の整理や拡散、建物や都市の計画などに関する決定は、職場、近隣地区、および広域圏の異質性を備えた人々から成る民主的な公衆が下すべきである。とりわけ本書の最終章では、職場と近隣地区間の社会的正義を促進するうえで、広域政府が重要であると主張する。

312頁

 以上です。
 
 ちなみに第7章「アファーマティブ・アクションと能力という神話」の冒頭にはアンドレ・ゴルツによる文章の引用があり、(「教育」システムを含む)「社会」システムの選択を間違えた際にどのような不幸が労働者(成長した多くの子ども達)に(「人災」として)降りかかるのかを端的に表現しており見事です。

 私たちは、私たちの抑圧について、私たちの苦痛について、私たちのつらさについて語るべき言葉を持っていない。
 私たちはまた、消耗と愚行と単調さ、そして、私たちの労働と生活における意味の欠如に対する私たちの反乱について、私たちの労働への軽蔑に対する私たちの反乱について、工場の専制的なヒエラルヒーに対する私たちの反乱について、語るべき言葉を持っていない。
 そして私たちは、そこでは私たちが負け犬のままであり、他の階級にとっては標準的と見なされているような財や享楽が私たちには与えられておらず、せいぜい渋々と分け与えられるに過ぎないのだが、それでもあたかも私たちが何か特別扱いを求めているかのように見えてしまう、そのような社会に対する私たちの反乱について、語るべき言葉をもっていない。
 労働者であるということ、疑いの目で見られているということ、そして、より多くのものを持っていて、より多くのことを知っているふりをしており、自分たち・・・・が定めた自分たちの・・・・目的のための規則に従って労働することを私たちに強いるような人々によってこき使われているということ、これらのことがどういうことなのかについて、また、これらについてどのように感じるかについて、私たちは語るべき言葉を持っていない。
 そして、私たちは、これらすべてのことが、支配階級が意思決定と物質的富との権力を独占してきたからだけでなく、文化と言語も独占してきたためであるということについて、語るべき言葉を持っていない。

アンドレ・ゴルツ


 最後に、第2章 「抑圧の五つの側面」冒頭に引用されている、シモーヌ・ヴェイユの引用を記載し、レビューを終えます。

 窓ガラスがあってもそれに気付いていない人は、ガラスが自分の目に入っていないことを知らない。別の位置にいて、そのガラスに気付いている人は、相手にそれが見えていないということを判っていない。
 私たちの意思が、自分の外部で起こる他人の行動を通じて表現される場合、私たちは他人がそのことに同意したかどうかを確かめるために、時間や注意力を無駄に使ったりはしない。このことは、私たち全員について言える。私たちの注意力は、ひとえに自分の営みの成功のために与えられているのであり、他人が従順である限り、それを他人の要求に応じて使ったりすることはあり得ない。(中略)
 レイプは、愛が恐ろしい形で戯曲化されたものであり、そこには同意が欠落している。
 レイプに次いで、人間という存在にとって第二に恐るべきは抑圧である。それは、恭順が恐ろしい形で戯画化されたものだからである。

シモーヌ・ヴェイユ


 至言に満ちた、熱いハートを感じる一冊でした。




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