ヨハネの福音書21章1~14節 新しい朝に③「教会はイエス様の食卓」 2022.5.1 守谷キリスト教会礼拝説教
今日の箇所は、
復活されたイエス様と弟子たちがガリラヤ湖畔で朝食を食べる場面です。
静かな、穏やかな情景が浮かぶのではないでしょうか。
教会でもつ食事会を「愛餐」と呼びます。
イエス様を信じる者同士が、
信仰と希望と愛とを分かち合いながら食事をすることです。
互いの愛と、
神から私たちへの愛、
私たちから神への感謝と喜びが、
愛餐においては表現されます。
イエス様は炭火とパンを用意され、
弟子たちを待っておられました。
弟子たちにとっては、何も取ることのできなかった暗い夜の後でした。
収穫に関してだけでなく、
弟子たちの魂も未だ、
あの十字架の夜にあったのかもしれません。
それは自分達の弱さをとことんまで思い知らされた夜でした。
ペテロにとっては、
何も獲れなかった以上に、
「イエスのことなんか知らない」
と言い放った夜でした。
ヨハネの福音書では、
イエス様が弟子たちと働かれた期間を「昼」(ヨハネ9:5)とし、
イエス様が十字架に引き渡され弟子たちから離れる期間を「夜」(ヨハネ9:4、13:30)と表現しています。
しかしその夜は終わり、イエス様は復活されました。
夜明けごろ、イエス様は岸辺に立たれました。
「食べる魚がありませんね。」
イエス様は私たちに「今」に注目させます。
「いや、本当はもっとこうあるはずだ。あの時こうしていれば…。」
そのように過去や未来ではなく、
うまくいっていない「今」を直視することは、しばしば痛みが伴います。
イエス様は私たちを食事に招いてくださいます。
教会の交わりは、イエス様の食卓です。
思い描いた通りではない「今」も、
喜びのある「今」も、
共に分かち合い、味わう食事です。
その食事に招いてくださったのがイエス様ご自身であることを知っているから、
大きな安心があります。
癒しは、ここから始まります。
それは私たちの目にはゆっくりとしたプロセスかもしれません。
しかし恐れなくて良いのです。
古い時代は終わり、
すべての痛みを担った十字架で死なれたイエス様は復活し、
新しい約束の時代に私たちを生かしてくださっているからです。
【思い巡らしのために】
1.食事に関連して、どのような楽しい思い出がありますか?
2.イエス様が見せてくださっているのは、どのような「今」ですか?