18 俳優の聴覚の磨き方
俳優の技術まとめ
「では、実際に五感の訓練に入る前にこれまでのおさらいを簡単にしておきましょう」
「はい」
「俳優のもっとも重要な技術とはなんでしょう?」
「はい、役の人物の目的を見つけ、それに共感し、その目的を達成するために本当に行動する技術です」
「素晴らしいです!その本当にがとても重要です。共感している「つもり」ではなく「本当に私でも同じことをやるだろう」くらい「共感」しなければなりません」
「はい」
「行動している「ふり」でも「つもり」でもなく本当に現実でする時と同じように行動しなければなりません」
「はい」
「行動の始まり、展開、終わり、次の行動へのつながりなど、行動のプロセスのあらゆる局面において本当であることが重要です」
「はい、肝に銘じます。本当に行動できれば身体的感覚に変化が起きます。すると私は記憶ではなく体感にいざなわれて演技することができます」
「ですね。舞台上において「行動されたもの」が最も説得力を持ち信用される力を持つのを忘れないで下さい」
「はい」
「演技においてリアリティとは行動のリアリティに基礎をおいています。行動の正確性を欠くと観客はもちろん、何よりもあなたの無意識が信じてくれなくなります」
「はい、私の無意識が信じてくれなければ「感情」も「感覚」も「思考」も自然に生まれてきてはくれないとうことですね」
「そうです。無意識を味方につけることが出来なければ、あなたは意図的な努力で感情を絞り出し、感じているふりをし、思ってもいない事を本当らしく言わなければならなくなります」
感じてもいない感情を表現し、思ってもいない言葉を吐き、楽しくもないのに笑う…
私はこれ以上の屈辱を知らない…舞台の上ではもちろん、実人生においても…
知っていることに驚き、計画された感情を思わず経験する秘訣
「では、本当に行動するとは簡単なことでしょうか?」
「いえ、かなり難しいです。最悪の条件の中で行動しなければなりませんから」
「例えば?」
「はい、大勢の観客や撮影スタッフに囲まれているにも関わらずリラックスしていなければなりませんし、何が起きるのか結果を知っているにもかかわらず本当にドキドキしたり驚いたり悲しんだりしなければならないからです」
「揚げ足をとって申し訳ないですが、ドキドキしたり、驚いたり、悲しんだりは行動ですか?」
「いえ、違いますね…」
「ですね、それらは全て感情ですのであなたに選ぶことはできません。しかし、あなたはそれの原因になったであろう行動なら選ぶことができます」
「はい、まだ、スッと行動と感情や状況を区別できないです」
「大丈夫です。訓練を重ねれば判別できるようになります」
「例えばですが、以前、あるオーディションでスゴク難しい場面がありました。行動が大事だと知った今でも、あの時どうすれば良かったのか混乱してしまいそうです」
「どんな場面ですか?」
「はい、私は合格発表を見に来た極度にオドオドした受験生を演じなければなりませんでした」
「はい」
「そして、受験番号を発見し、合格に驚き、友人も合格して二人で泣きながら抱き合い喜ぶという場面でした」
「なるほど、確かにやさしい場面ではありませんね」
「自分も友人も合格だと知っているにも関わらず、驚き、喜び、泣くにはどう行動すれば良かったのでしょう?」
「いきなり、全てを信じ、役になりきれる幸運も無くはないでしょう」
「ええ」
「しかし、もし、いきなり全てを信じるのが難しい場合には一連の行動を小さく区切るのです」
「区切る?」
「はい、そして、プロセス一つ一つの小さな行動を積み重ねてゆくことで手がつけられるようになります」
「はい…」
「それらの小さな行動が有機的につながれば、いつのまにか、あなたの無意識がそれに引き込まれ、気づけば自分が合格を渇望している受験生になってしまっていた…ということを結果的に経験できます」
「はい…」
「その有機的な道を正しく進んでいるのか、それともずれているのかをナビゲーションしてくれるのがあなたの五感です」
「飛行機のレーダー見たいのモノですね?」
「そうです。信じることを幸運な偶然に任せるのではなく、俳優の磨かれた技術によって必然にするために五感というレーダーを磨いていきましょう」
「はい」
「その合格発表の場面は五感の訓練を終えた後に取り組んでみましょう。必ず納得行く仕上がりにできるはずです」
「はい、楽しみです!」
聴覚の訓練
「では、先ずは聴覚からはじめてみましょう。先ずは聞くとはどういう行動なのか観察してみましょう。今から1分間、なるべく沢山の音を聴き分けて下さい。そして、後で何の音が聞こえたか教えてください」
先生はそう言うとスマホのタイマーで1分を測り始めた。私は眼を閉じ、耳をすました。
先生が移動するのが床の軋みやズボンの擦れる音で分かる、ペンを持ち上げ、キャップをあけた、ホワイトボードに何か書いたかもしれない。なんだかモーターの音らしき低音が響いている。ビルの水道管だろうか?水が流れる。外の様子もかすかに聞こえてきた。今、数台の車に交じってバイクが走り去った。パチンコ店の騒音も聞こえる。ときおり音量があがるのは客が出入りの際ドアが開くからだろうか…部屋のシーンという音も聞こえる。と、タイマーのアラームが鳴った…
「はい、ありがとうございます。何が聞こえましたか?」
「結構色々な音が聞こえました…」
私は聞こえた音を全て伝えた。
「なるほど、かなり多いですね。それだけの音が聞こえていたことに気づいていましたか?」
「いえ、私は普段よほど周囲の音に無関心なのだなぁと驚きました」
「それで普通です。それらの音すべてが常に聞こえていたら生活できませんから」
「確かに…」
「私たちは、目的に応じて聞くべきものを無意識に選択していることに先ずは気づかれたかと思います」
「なるほど…」
「では、あなたは今、耳をすますという行動をしたと思いますが、そのためにしたことと、結果、起きた事を思い出してください」
「したことと起きた事?」
「そうです、したことは意識的に再現できる行動です。起きたことはその行動の結果として身体から生じたものです」
「まず、目を閉じました。…あっ…多分、呼吸を静かにし始めたと思います。…それから、身体がやや前のめりだったような気がします…そんな感じでしょうか?」
「何のためにそうしたのだと思いますか?」
「その時は無意識でしたが、より多くの音を聴くためという目的のためだったと思います」
「その時は無意識だったかもしれませんが、あなたが意識的にも選択可能な行動ですよね」
「はい」
「では、それらの行動の結果、何が起きましたか?」
「うーん、集中して、身体全体が研ぎ澄まされていく気がしました。…へんなんですが、なんだか耳が大きくなったような、耳に意識が集まっている感覚も覚えました」
「では、再び同じ行動をして、同じ事が再び起こすことは可能そうですか?」
「はい、先ほどと同じように必要な小さな行動まで正確に行えば起きると思います」
「今、あなたは無意識にしていたことを意識にあげたわけですね」
「はい」
「あなたは今後、無意識にしていることも常にどこかで気づけるようになっていって欲しいです。それらもこぼさず、気づき、再現できることが行動の専門家に必要な感覚ですから」
「分かりました」
小さな行動の真実
「では、ここが現実世界ではなく劇場だとします」
「はい…」
「耳をすましても聞こえるのは、せいぜい、客の息づかいや舞台の軋みだけだとあらかじめ分かっていたとします」
「はい…」
「俳優のあなたは耳をすます必要は実際にはありません。なぜなら、どうせ何も聞こえないのを知っているのですから…」
「なるほど、分かってきました」
「しかし、実際にするのと同じ行動をすることは可能ですか?」
「はい、可能だと思います。私は何か聞こえるはずだと耳をすましている人物なのですね」
「私が何が言いたいか分かりますか?」
「はい、私は耳に手を当てて、耳をすましていますというポーズで観客にその人物が何をしているか説明することもできます」
「はい」
「また、聞いているつもりになることもできます」
「ですね」
「しかし、もし、私が本当に役の人物として行動したいならば、先ほど実際に耳をすました時に生じたのと同じ身体的感覚が起きているかどうかをモニターすることで、私の行動の真贋を判断できるという事だと思います」
「まったくその通りです。そして、有機的な行動のラインに乗れていればその後の事件が何であってもリアクションは生まれてきてしまいます」
「リアクションが生まれてくる?」
「はい、私たちが出来るのは行動、アクションだけです。リアクションはしないで下さい。リアクションは生まれてくるのです」
「探していた音が聞こえ喜びを経験しなければならない時、あるいは結局は何も聞こえず落胆しなければならない時も、ポイントは本当に行動できていて身体的感覚が伴っているかどうかなのです。できていればそれらのリアクションは生じてしまうのです」
「なるほど」
「喜びや落胆が思ったように感じられない時には、リアクションの仕方をうんぬんするのではなく、その前の耳を澄ますという行動が本当に聞きたい音を聴き分けるための身体的感覚が伴うような真実の行動ができていたかを検証すると良いのです」
「はい…」
「では、聴覚の訓練をさらに進めて行きましょう。この訓練を通して、行動の細部への気づきや繊細な身体的感覚を養っていくのです。スタニスラフスキーは言いました、小さな行動を真実に実行できる俳優は奇跡さえ起こせるのです」
私は合格発表の場面の自分を思い出していた。
私は本当に自分の番号を探していただろうか?
役が感じていたであろう身体的感覚が伴うやり方で…
今なら分かる…私は最後に泣くという場面を演じるための単なる段取りとして探しているふりやつもりになっていただけだったのだ…