非専門読書論
僕は新書を娯楽として読んでいる。来る日も来る日も細長い本から知識を得て気持ちよくなっている。去年は百冊読んだ。読めたことが嬉しかったので、ここにはっきり記しておく。今年も百冊と言いたいところだが、七十冊くらいに落ち着く予定だ。
本屋で新書を選ぶときは明確な基準がある。タイトルテーマに関する知識が無く、内容が想像できないものを手に取るのだ。予備知識は無ければ無い方がいい。ただし、これから数年で知識が古びてしまいそうな本はなるべく選ばない。とはいえ完全に流行りが来ているトピックだとついつい買ってしまう。
新書は全く知らないことを知るのに適している。というのも新書は初学者向けに書かれているからだ。基礎の基礎から話を始め、その分野で有名な議論を進めたあと、専門的な内容に入っていく。筆者や編集者から「これならわかりますよね?」という目配せがあるのだ。もちろん単一の道筋で話を進めていくため、全体を網羅することが難しくなるのだが、手ぶらで読み始めて最新研究の一端に触れたい読者には願ってもない形態なのだ。
ここで敢えて新書の大きな欠点を挙げる。新書は話の流れが読めないのだ。娯楽として提供される文章にはなんとなくのガイドラインがある。推理小説なら犯人を探す、恋愛小説なら恋の行方を追うといった明確な目的があり、難解な純文学ですら何かしらの問題意識が浮かび上がってくる。筆者の作ったレールに乗ることで、読者は勢いをつけて読むことができ、「ページをめぐる手が止まらない」なんて現象が起きるのだ。
それに対して新書にはお決まりの流れが存在しない。扱う題材が多種多様で、問題提起の形もバラバラだからだ。新書を常日頃から読んでいる僕ですら、本の半分くらいまでちんぷんかんぷんのまま読み進めることがざらにある。そんな時は、細々としたトリビアを拾いながらとりあえず先に進んでみるしかないのだ。
それでも、読み進めているうちに必ず本の調子が掴める瞬間が来る。筆者が何を言いたいのかわかるときが来るのだ。そもそも理性的で科学的な文章だから常に意味は取れているのだが、筆者のノリに自分が合わせられるかは別問題なのだ。ノリが合えば途端にスルスル読めるようになる。そこには高速道路で渋滞を抜けたときのような快感がある。そして、読み終わったころには馴染みの本になっているのだ。
知らないことを知る行為は知り得ないかもしれないという緊張感と隣り合わせだ。教科書を読むのが辛いのは本当に知らないことが書いてあるからだ。ビジネス書を読むのが快楽になるのは既に知っていることばかり書いてあるからだ。知らないことを知りたい人にはやはり新書がおすすめだ。非専門読書を始めれば新書の沼にハマること間違いなしだ。