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遠慮してしまう感覚的

社会生活を営む中で、その日しか会うことがないだろう人との出会いは、たくさんある。そういった人と、挨拶だけをすれば足りる場面であればさほど困らないが、しばらくの時間を共にする必要がある場合、黙りこくって過ごすことは難しい。そのため、当たり障りない話題で時間をやり過ごすことがある。
私は人見知りのため、仕事でもない場面では、何を話していいかわからなくなる。仕事上の関係であれば、目的が共有されていることも多いことから、スキルとして獲得したコミュ力によって、時間を潰すことは可能であるが、そういった場面では選ばない話題がある。この選ばない話題の1つに、マイノリティにつながる話題がある。
相手の性別や年齢、「吃り」や「発音の悪さ」があることや、車椅子や義足などの補助具や補装具の使用していることなど、これらのことに触れないように話すことは、下手な揉め事を起こさに方法として、気をつけることの一つだ。このような感覚を持っているのは、私だけではないはずだ。
そのようそういった話題を避けて振る舞う理由は、そのことにどのように思っているかについて、相手の考えや気持ちを察して話さないわけではなく、「無駄な攻撃」(いや、感覚としては反撃のが近いか)を受けないための自衛という感覚が強い。避けている理由は、この「無駄な攻撃」を受けたとき、十分な防御ができないと感じているからなのではないだろうか。
この、十分な防御ができない感覚を、言い換えると、「当事者と呼ばれる者以外には、その問題について語る資格はないと感じる感覚」ではないだろうか。
この感覚の良し悪しについては、またの機会に考えてみたいが、この感覚に自覚的になることは、当事者と呼ばれる人と社会を共存するうえで、大事なことだろう。

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