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ブンゲイファイトクラブ批評 グループC

★点数★

「おつきみ」 3点
「神様」   5点 →勝者
「空華の日」 2点
「叫び声」  4点
「聡子の帰国」2点


★総評★

六枚という短さで、人間の感情を表現するというのはなかなかに難しいことだと思う。作中に描く場面を大きく広げ、個々の人間が薄まっているような印象を受けた。私は物語を大きく分けるものの一つとして、「人間」と「それ以外」を考える(単純な二元論にはならないが、便宜上)。読後感から判断すると、「神様」「空華の日」といった後者に属する作品がこの場ではやや有利であり、前者でも、「叫び声」という、一点で貫かれた作品は強かった。戦いは絶え間ない打撃の死人観音と、合気道の「神様」で最終決戦となり、十二時間にわたる激戦の末後者の勝利が決定した。


★各作品評★

・「おつきみ」和泉眞弓

本作において、何より印象的だったのは、「時間」というものがひどく混沌としている点だ。

①散歩に出発
②とうきびの夏
③初めてのお風呂
④散歩後、団子作り
⑤髪型の話
⑥一人のおつきみ

物語は以上の六つに分けることができ、それぞれの前後関係も推察できる。「③→①→④→②→⑤→⑥」といったところだろうか。しかしそこには「現在」が希薄だ。時間軸的な最後の場面である⑥において、主人公が①〜⑤場面を回想していると考えるのが一般的かもしれないが、しかし文章に着目すれば、「現在」は6場面のどこにも属しておらず、あるいは全てに属していると考える方が納得しやすい。

また、時折描写される生々しい愛情表現も印象的だ。食い散らかした残りを食べること、ほんの少しすえた匂いのするゴミを食べること。それへの嫌悪と描かれる「愛」から、わたしはここに「粉っぽいコーンスープ」の比喩を呈する。

「(成長するにつれて)さびしいような気持ちになりました」
「今しかはけない小ささの、いつもぴったりしたくつをはいていてほしい」
「永遠にわたあめを食べていてほしかった」

主人公は、たびたび「現在」への執着と、未来への恐怖を口にする。「わたしとあなた」で完結した世界に、第三者が登場することで、⑥、それは終焉を迎えた。三位一体、三要素によって安定する世界観というのをよく聞くので、これは少し意外に思う。気になったのはこの構造と(別に欠点ではない)、「あなた」の人間性が一向に見えてこないことくらいだろうか(外的な描写は多いのだが、「あなた」の像が浮かばない。人間というより、むしろ記号のようである)。

時系列を狂わせて、境界を曖昧にしなが描かれる情景。本作は他ならぬ「現在」の物置小屋なのだ。


・「神様」北野勇作

神様は、はるか昔からヒトを超越した存在であった。けれども彼らを、そう定義した(生み出した)のは我々ヒトだし、作中においても「製造」という形で確認される。考えてみれば機械も然りで、両者の本質は案外同じものかもしれない。そして本作における神様が、ひどく人間じみた格好をするとき、私は偶然にも、「おつきみ」において言及した、「三位一体」を想起せざるをえなくなった。つまりここで、神様は機械であり、神様は人間であり、そして機械と人間は、神様にとって同価値の存在である、というイコール関係が成立し、三者を結ぶ綺麗な三角形が完成するのだ。

そんな美しい構造によって描かれるのは、どうしようもないヒトの姿だ。自ら生み出した機械によって、神様の守護を失っていく。自ら生み出した神様によって、自らの世界すら侵攻される。ヒトが機械で、神様であるとするならば、きっと我々は延々続く独り相撲に汗を流す、とんでもない馬鹿に相違あるまい。歴史もそれを証明している。傑作。

追伸:サイエンス(機械)、という要素と、フィクション(神様)、という要素からなる本作は、まさに「SF」と呼ぶにふさわしい。そんな言説ががふと頭に浮かんだが、ここにどうやって「ヒト」を入れたら良いだろうか。うまくこじつけることができた「ヒト」は、是非とも私に知らせてほしい。


・「空華の日」今村空車

迷える主人公は幻想を見て、その世界へ踏み入った——。日常のちょっとした違和感から、不条理な世界へ突入する。どこか安部公房に似た構造が見出せるが、論理的に構築された「奇妙」と異なり、本作においては徹底的に理由というものが排されている。読者は展開を理解できず、主人公もまた理解できない。ただ自動的に出力される怒涛の文字に乗っかって(あるいは死人観音の手の内で)、先へと進むだけなのだ。それはある種、ジェットコースターに似た快感である。

しかし一方、本作はそれ以上の何者にもなっていない。先行する作品を挙げることは(評者の記憶力からして)難しいが、どこか既視感を否めない。この作品の根幹には、単純に「理解不能な展開」があるばかりで、文学史上初めて書かれたもの(理解不能な展開)ならいざ知らず、「面白い」以上の評価をすることは困難だと考えた。

また、一点疑問なのだが、翁の面をつけるのは、「とうとうたらり」を唱えた後が正しいのではないだろうか。この差異にはどういう意図があるのだろう。



・「叫び声」倉数茂

はじめに叫び声があった。一組の男女の両者が死に、永遠の別れを告げることで、一組の男女が出会いを果たす。物語を一貫しているのは「叫び声」で、そこを境に彼と彼女は、対照的な道を歩んだ。男はマンションにとどまって、女はどこへか引っ越していく。男は様々なものを失い、女は(詩集を出版することで)成功を得る。しかし二人は結局のところ、はじめにあった叫び声に、縛り付けられたままだったのだ。

赤で始まり、青で始まる。ここに代表されるように、作品全てに無数の対比が込められた良作。本作をタナトス的な出会いの作品とするならば、古今東西に描かれる、エロス的な出会いとの差異に着目するのも、一つの読み方のように思われた。


・「聡子の帰国」小林かをる

日本とアメリカ、「こちら」と「あちら」。ボストン大学に聡子が留学、残された家族は不幸を享受し、帰国した彼女は喫茶店で、幸福な海外生活について語り始める。隣あう二つのテーブルの、聡子の笑顔と、みしらぬ娘の涙が象徴的だ。

物語としては「プラスとマイナス」の二項対立でしかなく、人物の内面もあまり描かれない。最後の一文の刺激が足りない。もう一歩踏み込んでほしいと感じた作品。

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亜済公
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