ブンゲイファイトクラブ一回戦Bグループ感想
・「今すぐ食べられたい」中原佳
食べられたい牛と食べたくない人間の倒錯した悲劇。世界に平和をもたらすだろうその美味と、(観光客がおらず沐浴する人もなくただ死体を焼いている)戦争に近い状態だろう人間界とが、対比される。誰も牛に手を出さず、ガンジスに流してしまうという結末からは、ある種のメッセージを読み取ることができるだろう。寓話だろうか。
・「液体金属の背景 Chapter1」六〇五
組織に腐敗がつきもののように、閉じられた関係の中で人は次第に堕落していく。故に「我々」は、個として存在する道を求めた。他者との関係性を断ちながら、それを空想する段階(普遍と個の両立)を経て、「我々」は主観的に唯一絶対の「神」となる。「Chapter1」というからには、続きがあるのだろう。完成形がどのような構造になっていくのか、興味深い。
・「えっちゃんの言う通り」首都大学留一
異常を象徴する「えっちゃん」が、アイドルとして認識されうる不思議な光景。狂気的な雰囲気すら感じられた。日常の風景に紛れ込む非日常、という点で、眉村卓とどこか似ている。枠組みが破壊され、もたらされる解放を描いた一作。
・「靴下とコスモス」馳平啓樹
「調和」「安定」、あるいはこれに類する概念が、本作の重要な鍵だと思う。それは「コスモス」の花言葉であり、あるいは「43」という数字に付された意味でもあるらしい(エンジェルナンバー)。靴下の欠落に対して、かつての「僕」は「残った片方を捨て」ること、つまりは欠落そのものを認識の外に置くことで、元通りの生活——調和——を求めていた。その意味も含めて、彼の「長旅は終わった」のだ。しかし、「僕」は以前の結末に多少の悔いを残していた。だから、なのだ。彼は落下した靴下を眺め続ける。ピンク色のコスモスと、少し褪せた青の靴下。四十三日間はまさに「調和」の日々であり、「無力であった分だけ幸せ」であった。彼はここで、欠落そのものに充足を感じる。価値を見出す。古に建築する際は、あえて未完成の部分を残すという慣習があったと聞くが、通ずるところがあるかもしれない。ともかく、そういう逆説的な感覚を持つ主人公の元に、ある日、美しい小箱が送られた。中には果たして、「今すぐにでも穿けそう」だとK (一般人)が評する、綺麗な靴下が入っていたのだ。彼はそこに、価値を見出すことができたのだろうか? 作中に答えは明かされない。「僕」はただ、「頬に当てる。口に含みもする」ばかりである。
・「カナメくんは死ぬ」乗金顕斗
最初に、「死」が確固として認識される。それが何であるかを本当に分かることはできないのか。あるいはまた、自己の存在を危うく思い、それが他者によって成立するのか、自己によって成立するのか。さまざまな疑問や思想を経由し、主人公はようやく「命」にたどり着く。人は「死」から「生」を見るのだ。終わりがあるからこそ過程があり、相対化によってのみ人は何かを知ることができる。私は詳しくないのだが、哲学史と合わせて読むと、より高次の面白さが見つかるかもわからない。