日本人は本当にディベートが下手なのか
侃侃諤諤(かんかんがくがく)
→ 自分の意見を遠慮せずに述べること。また、盛んに議論をするさま。
あなたはどれくらい自分の意見を遠慮せずにいえるだろうか。
また、ディベートをする場面に出くわした際に、しっかりと自分の意見を主張できるだろうか。
このあたりの根本というか、そもそもを理解していない人が多いように感じるのだが、議論の目的は相手を打ち負かすことではなく、建設的なゴールを目指すことにある。
そう考えればいくらかディベートに対するストレスというかネガティブなところは払拭されるのではないだろうか。
それから、日本人はディベートが苦手と一括にするのもなにか違和感を覚える。
というのも、決して苦手なのではなく、タイミングと言い方の問題でいくらでも見方を変えることができると考えている。
ディベートの王道である外交
ディベートの王道を考えたときに、外交の場面は外せないだろう。
まず、外交には5Pと呼ばれるものがある。
Principle = 理念、Pragmatism = 実用性、Prestige = 威信、Parley = 折衝力、Power = 軍事や経済の5つである。
最近ではさらに2つ加わって、7Pが不可欠といわれている。
その2つとは、partnership = 協調性、psychology = 心理である。
外交の上手いあるいは下手という判断は、その国の理念や国家目標と現実に対応する実務能力とのバランスによるといわれている。
そういった側面から捉えると、まずイギリスやアメリカが突出して優れていて、次にフランスやドイツあたりが続くとされているのが一般的だ。
一方で、理不尽も構わず強腰一点張りで、あまり外交上手とはいえないとされる中国、ロシア、韓国、北朝鮮の影響もあるのだろうが、日本もそちら側に属するとされている。
その根本にあるのが、筋を通すことや押し負けないということが求められているのである。
外交が下手だといわれる期間
日本という国は、1,000年を超える長い外交史を持つ。
そんな長い歴史の中で、外交下手だといわれるのは、第一次大戦後あたりから第二次大戦前後までの限られた期間と、経済成長が停滞後している昨今に至る短期間だけだという見方がある。
客観的科学的にして人間観を土台に据えた歴史を学ぶことによって、日本伝統の正しい外交を取り戻すことはできるという見解だ。
第一次大戦後、世界の中で大国といえたのはイギリス、フランス、イタリア、アメリカ、そして日本の5ヶ国だけだった。
日本は国際連盟の常任理事国となり世界の3大海軍国、5大陸軍国となったのだが、それを支えたのは強い信義の下にあった日英同盟だった。
ところが、そんな日本に魔が差し始める。
一部の政治家、軍、学者、マスコミなどが、反イギリス親ドイツの論戦を張り始めたのである。
その一方で、中国がアメリカをたきつけ日英同盟反対の狼煙をあげると、アジア進出に出遅れたアメリカが乗ずることになる。
また、革命を経た旧ソ連まで、排日、反日に転じていく。
そんな中で、信義と理念を失った日本は坂道を転がり落ちるように、日英同盟破棄・国際連盟脱退をする。
そして、ドイツ、イタリアと組んで第二次大戦への泥沼へと入っていくのである。
たらればなのだが、日英同盟を堅持していたら、イギリスの計らいで、オランダからインドネシアの石油を買えたのではないかという話がある。
となると、アメリカの対日石油禁輸が事実上の日米開戦のきっかけとなった結果とは違った展開を辿っていたかもしれない。
つまり、第二次大戦は回避された可能性が高かったとする意見が多くあるのである。
簡単にいうと、日本は自ら最悪の選択を犯して自滅したということだ。
戦争に負けて外交で勝つ
大戦後は帝国主義国の植民地支配を終焉させた。
戦前に日本が有色人種国代表として唱え始めた人種差別撤廃が、皮肉にも日本の敗戦を機に、民族自決や独立に繋がり大きな転換点となっていく。
頭一つ抜き出た新興大国アメリカは、欧州列強の相対地位を押し下げるも、共産主義圏のリーダーに躍り出たソ連との東西冷戦へと新たな展開を始める。
そんな世界の趨勢にあって、敗戦後の日本の宰相は吉田茂。
彼は、ナポレオンの歴史を元に戦争に負けて外交で勝った歴史もあると喝破し、サンフランシスコ講和条約で占領軍からの独立と西側陣営への参画を勝ち取る。
戦後日本の安保と国際社会での位置づけを確定したことから、豪腕の国家リーダーだといえるという見方もできる。
他にも外交が上手だったとされる政治家もいる。
森喜朗氏も実はその1人で、そのやり方はプーチンと同じやり方だという見方もあるのである。
まとめ
外交に寄せて書いてみたが、当然ディベートが行われるのは政治の場面だけではない。
ちょっとした会議の場面でも議論は行われる。
そんな場面で自分の意見をきちんといえるかどうかは、その準備と自信が大きく左右するように思う。
そこには経験も重要になってくるが、やはり幼い頃からの意識づけは大切な気がする。
例えば、子どもが疑問を持ったときに正論を言う場面に出くわしたことはないだろうか。
そのときに返せる答えが見当たらないからと適当に流して答えたり、その場を逃れるような対応をくり返していると、議論をするという場面は圧倒的に減る。
この場合、答えが正しいか間違っているかは重要ではないのである。
なぜそう考えたのか、自分の意見をちゃんと伝えることにしっかり付き合うことがなによりも重要なのである。
こういった機会を多く持って過ごせば、大人になったときにも自分の意見を遠慮なく言えるように思う。
確かに常に議論することは疲れるかもしれないが、なにか新しいことを始めようとするときに議論は欠かせない。
そのバランスを上手に取るためにも、ディベートをする機会を少しでもはやい時期から習慣化することを提案しようと思う。
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植田 振一郎 Twitter
株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。