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日本全国に達磨(だるま)がある理由

七転八起(しちてんはっき)
→ 何度失敗しても、また起き上がって努力する様子。

何度も起き上がるという言葉を聞いて、私はすぐに達磨(だるま)を連想した。

ただ、なぜ達磨が日本全国のどこにでもあるのか、考えたこともなかった。

どの実家にも1つは置いてあるといっても過言ではない達磨なのに、日本全国どこにいってもお土産として置いてある達磨なのに知らないのは達磨に失礼だ。

ということで、達磨について調べてみることにした。

そもそも達磨(だるま)ってなぁに?

全く知らなかったのだが、達磨は禅宗の創始者である達磨大師(Bodhidharma)の異名で知られているとのことだ。

達磨大師は5世紀に中国に渡り、禅の修行方法や教えを拡めた。

そんな達磨大師について、より詳しく書いていこう。

達磨大師(Bodhidharma)

達磨大師はインド出身の高僧で、5世紀に中国に渡ったとされている。

そして、達磨大師は禅宗の祖として知られ、禅の修行方法や教えを拡めたというのは上述したとおりだ。

達磨大師が座禅を座っている姿を描いた達磨(禅宗の守護神)の像は、禅宗の寺院によく見られる。

達磨大師は中国に渡った当時、仏教の教えは既に存在していたが、彼は禅の修行方法を拡めることで、仏教を新たな方向性に導いた。

禅の修行者が、心を静めて自分自身を見つめることで、真理に到達することができるというのが、達磨大師の教えだ。

つまり、そもそもは達磨大師の座禅の姿をした像が達磨(だるま)の起源ということになる。

それから、世界で初めて達磨の置物ができたのは、中国のとある寺院であるとされている。

その時期については諸説あるが、7世紀から9世紀頃だといわれている。

具体的な年代は不明だが、達磨(だるま)の起源が中国であることから、中国で達磨の置物が最初に作られた可能性が高い。

また、最初に作られた達磨の置物がどのような形をしていたのかについても、明確な情報は残っていない。

達磨(だるま)が日本全国に拡がった理由

達磨(だるま)の起源は、達磨大師の座禅の姿をした像だということは理解できたと思う。

そんな達磨がどうやって、日本にやってきて現代にも1つの文化として根付いているのだろうか。

そのきっかけをつくったのも、もちろん達磨大師で中国から日本に禅宗を伝えたことで知られている。

達磨大師は6世紀に日本に渡り、禅宗の基礎を築いたとされている。

その後、禅宗は日本において発展し、多くの寺院が建立されていくのである。

戦国時代には、武士階級の間で禅宗が拡がっていった。

武士たちは、禅の修行を通じて心を鍛え、戦場での冷静な判断力や勇気を身につけることを目指したのである。

そのため、多くの武士たちが禅宗の寺院を支援し、また禅宗の教えを学ぶために寺院を訪れるようになった。

また、庶民の間でも達磨や禅宗の信仰が拡がった。

特に江戸時代には、庶民たちが禅宗の寺院を訪れて信仰を深めるようになった。

禅宗は、身分や階級に関係なく、あらゆる人が修行できるものであったため、庶民たちにも親しまれたのが大きな理由だ。

また、江戸時代には、達磨を題材とした絵や物語が流行し、達磨の人気が高まった。

その後も、達磨は日本の文化において重要な位置を占め、多くの人々に愛され続けてきた。

つまり、達磨(だるま)が日本全国に拡まった理由は、達磨大師による禅宗の伝来や武士階級、庶民の信仰、文化の発展などが挙げられるというわけだ。

こういった要因が相まって、達磨(だるま)は日本において非常に親しまれた存在となったのだ。

達磨(だるま)の伝説

そんな達磨だからこそ、様々な伝説も残っている。

達磨大師の九年間の瞑想

伝承によると、達磨(だるま)は達磨大師が9年間の瞑想の中でつくり出されたといわれている。

瞑想中に、達磨大師は脚がしびれてしまい、その脚を切り落として瞑想を続けた。

そして、その脚を使って達磨(だるま)をつくりあげたというのである。

達磨が火を消した話

あるとき、達磨が置いてあった寺院に大火事が発生し、周囲の人々は火を消すことができなかった。

ところが、達磨は自分の身体を燃やして火を消し、その後も燃えることがなくなったといわれている。

達磨の目が動く話

ある伝承によると、ある人が達磨を割ろうとして割ることができず、怒って達磨を蹴り飛ばしたところ、達磨の目が動いたという。

また、達磨が目を動かすと、それは願いが叶うという伝説もある。

達磨の転生

達磨大師が禅宗の開祖として知られていることは何度も書いたが、ある伝承によると、達磨大師は過去にはインドの王子だったという。

王子は父親の反対にもかかわらず、仏教に入信して修行を続け、最終的には達磨大師としての生を得たという伝説がある。

達磨が弟子を育てた話

達磨大師は禅宗の創始者として、多くの弟子を育てた。

あるとき、とある弟子が達磨大師にどうやって禅を修行すればいいのかを問うたところ、達磨大師はただ座れと一言だけ答えたという。

この言葉が、後に座禅という修行方法の基礎となったといわれている。

達磨(だるま)に目が1つしかない理由

達磨(だるま)には目が1つしかないことに違和感を覚えたことがある人はいないだろうか。

かくいう私もその1人で、なんとなく願掛けのような位置づけで、達磨の目をもう1つ書くという光景は知っている。

そんなカルチャーがどうやって誕生したのかというと、やはり達磨大師が関係しているようだ。

達磨のお土産に目が1つしかない理由は、達磨大師が達磨(だるま)として禅宗の祖として崇められるようになったことに由来するという。

禅宗では、物事を単純化し、無駄を省いた状態を大切にし、あらゆるものを本質的なものだけに絞り込んで捉えようとする考え方がある。

この考え方から、達磨の置物やお土産には、あえて目を1つしか描かないことで、無駄を省き、本質的なものだけに焦点を当てたデザインに仕上げられるようになったという。

また、目を描かないことで、人々が自分自身の内面を見つめるきっかけとなるようにするという意図もあるとされている。

そして現代でもこのデザインが達磨(だるま)の象徴的なものとして受け継がれているというわけだ。

また、達磨に目をもう1つ書くことは、ある種の願掛けのために行われることがあるのは上述したとおりだ。

達磨の目は、禅の修行に励む人々が、目標を達成するための力を象徴しているとされている。

目標を達成することができたときや、健康や家内安全などを祈願する場合には、もう1つ目を描いて完成させるという習慣が生まれた。

このように、目を描くことで、達磨の力を借りて目標を達成しようという願いを込めることができるとされている。

ただし、目を2つ描くことはあくまでも一般的な風習の1つであり、全ての達磨に目を2つ描く必要性はないことは注意が必要だ。

広島県三原市のやっさ祭り

stak, Inc. のある広島県には三原市という場所がある。

そんな三原市には、やっさ祭りという祭りがあって、達磨(だるま)が出演することで有名だ。

やっさ祭りは、毎年8月に行われ、町を練り歩くお祭りで、多くの達磨の人形が参加するのが習わしとなっている。

やっさ祭りの達磨の起源は、江戸時代に遡るという。

当時、三原市周辺では達磨市という市が開かれ、多くの人々が達磨を購入した。

その後、達磨市が廃止されたものの、達磨を神格化し、やっさ祭りの中で達磨を祀るようになったのである。

達磨がやっさ祭りで出演する理由は、祭りの起源にある達磨市が、多くの人々に親しまれたことや、達磨が達磨大師の異名で知られ、禅の修行や教えを拡めたことなどが挙げられる。

また、やっさ祭りの達磨は通常の達磨とは異なり、目玉に大きな黒い点が描かれていることが特徴的だ。

これは、病気になったときに、達磨に病気を移して欲しくないという願いが込められたものだという。

祭りに参加する人々が達磨に触れたり、達磨の周りを回ることで、病気や災いから身を守ると信じられている。

今日では、やっさ祭りは達磨(だるま)を中心とした、多彩な催しやイベントが行われ、多くの観光客や地元民から愛されるお祭りとなっている。

まとめ

こうやって調べていくと文化というものは本当に面白い。

古くから信じられてきたことが現代の形に変わりつつも、それでもなお伝承されているということは感慨深いし、こういった文化をまた紡いでいく必要もあるのだろう。

三原のやっさ祭りはコロナ禍で開催されていなかった時期もあるが、2023年は8月11日〜13日まで開催決定だそうだ。

どでかい達磨(だるま)があったりするので、是非広島に来ることがある人は見てもらいたいものだ。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。