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大局を見ることで戦果を上げた戦い

小利大損(しょうりだいそん)
→ わずかな利益を得ようとして、かえって大損してしまうこと。

大局を見るという言葉がある。

大局を見るとは、特定の問題や状況について、細部に捉われることなく全体像を捉える視野を持つという意味だ。

つまり、個々の事象や問題だけでなく、全体としてどのように結びついているか、全体の方向性はどういったものかといった大きな視野で物事を観察したり理解しようとする考え方を指す。

これは戦略的な思考や長期的な視点を持つことに重要で、特にビジネスや政治、戦略的な決定をするときには必要とされる。

個々の問題に囚われることなく、全体の流れや動きを理解し、それに基づいて判断や行動をすることで、より良い結果を得ることができるという考え方が根底にあるからだ。

この大局を見るという言葉の具体的な由来については諸説あるが、古代中国の戦略家たちが戦略的な視野を持つことの重要性を説いていた。

ということで、中国の古代から伝わってきた考え方である可能性が高いと言われている。

中国の古典である孫子の兵法では、遠くを見ることの重要性が強調されており、これが現代の大局を見るという考え方に繋がっていると考えられている。

大局を見ることで戦果を上げた戦い

それでは、具体的に大局を見ることで戦果を上げたとされる戦いを紹介していこう。

サラミスの海戦(BC480年)

この戦闘は、古代ギリシャの都市国家連合とペルシャ帝国との間に起こったものだ。

その結果、ペルシャのギリシャ侵略は大きな打撃を受け、その後の戦局はギリシャの優位となった。

ギリシャ側の指導者テミストクレスは、ペルシャの艦隊が数で上回る中で、地理と敵の心理を利用した巧みな戦略を立てた。

彼は、サラミス島近くの狭い海域を戦場に選び、ペルシャ艦隊がその数の優位性を生かせないようにした。

さらに、テミストクレスは偽の情報をペルシャ側に送り、ギリシャ連合が逃げると偽装した。

これにより、ペルシャ艦隊は無秩序にギリシャ艦隊を追い、その結果、狭い海域で混乱状態となった。

ギリシャ艦隊はこの混乱を利用してペルシャ艦隊を撃破したのである。

参考文献としては、ヘロドトスの「歴史」が最も重要で、サラミスの海戦について詳しく記述されている。

また、現代の研究者による分析も多く、Peter Krentzの「The Battle of Marathon」などが詳細な研究を提供している。

赤壁の戦い(208年 - 209年)

中国の三国時代の前夜、孫権と劉備の連合軍が、自らの兵力を大幅に上回る曹操の軍を破った戦闘だ。

この戦いは大局的な視点からの戦略と、地理や気象条件を巧みに利用した戦術によって、連合軍の勝利に繋がったとされている。

具体的には、孫権と劉備の連合軍は、曹操の軍が楼船(大きな船)を繋げて船団を形成し、それが不安定であることを見抜いた。

そして、風向きを利用して火攻めを仕掛け、曹操の軍の船団を大混乱に陥れたのである。

また、大局的には、孫権と劉備は自らの地盤を確保し、曹操の勢力拡大を阻止することで、後の三国鼎立の時代を作り出す布石を打つことができた。

参考文献としては、陳寿の「三国志」や、羅貫中の「三国演義」などが挙げられる。

また、多くの学術的研究が存在し、この戦いの戦略や影響について詳しく解説している。

関ヶ原の戦い(1600年)

この戦いは日本の戦国時代の終結と江戸時代の始まりを決定付ける決定的な戦いだった。

徳川家康は大局を見て戦略を練り、多数の大名たちを味方につけて石田三成の軍を撃破した。

徳川家康は西軍の大名たちが石田三成に完全に忠誠を尽くしていないことを見抜き、また戦場となった関ヶ原の地理的な有利さを活用したと言われている。

また、徳川家康は、戦闘の中で戦況を有利に進めるために、各大名の立場や心情を見極め、彼らを説得あるいは脅迫して自陣に引き込むことにも成功した。

この戦いは大名たちの忠誠の問題、地理的な有利さ、そして戦場での臨機応変な行動など、大局的な視野からの戦略が成功の鍵となった事例として語り継がれている。

参考文献としては、吉川弘文館の「戦国武将列伝」や、森岡清美の「関ヶ原合戦事典」などが詳細な解説を提供している。

また、山本博文の「関ヶ原戦国絵巻」は、この戦いについての視覚的な解説も提供している。

アウステルリッツの戦い(1805年)

この戦いは、ナポレオン・ボナパルトがロシアとオーストリアの連合軍を破った戦闘で、彼の軍事的才能が最もよく示された戦いの1つとされている。

ナポレオンは、大局的な視点から戦略を立て、数で勝る敵軍に対して明確な勝利を収めた。

戦略的には、ナポレオンは自軍の中央部を意図的に弱く見せることで、敵軍に自軍の中央を攻撃させるという戦略をとった。

これにより、敵軍はその罠に落ち、自軍の両翼から挟み撃ちにされる形になった。

この戦いの結果、第三次対仏大同盟は事実上崩壊し、ナポレオンのヨーロッパにおける優位性が確固たるものとなったのである。

ウステルリッツの戦いの戦略と結果は、多くの軍事史研究者や軍事学校で研究・教育の対象となっている。

参考文献としては、David G. Chandlerの「The Campaigns of Napoleon」(ナポレオンの軍事キャンペーンについて詳しく書かれた一冊)などが挙げられる。

ゲティスバーグの戦い(1863年)

アメリカ南北戦争の最大の戦闘であり、この戦いで北軍が勝利を収めたことで、戦争の大局が決定的に北軍有利に傾いた。

戦略的には、北軍のジョージ・ミード将軍は、防御的な位置に自軍を配置することで、南軍のロバート・E・リー将軍の攻撃を効果的に防いだ。

また、ミード将軍は、ゲティスバーグ周辺の地形を巧みに利用し、その防御体制を強化した。

この戦いの後、南軍は再び北部への大規模な侵攻を試みることはなく、戦争は北軍の勝利に向かって進軍した。

さらに、この戦いの後にエイブラハム・リンカーン大統領が行った、ゲティスバーグ演説は、アメリカ合衆国の理念を強く象徴するものとなり、北軍の士気を高めた。

参考文献としては、ジェイムズ・M・マクファーソンの「Battle Cry of Freedom: The Civil War Era」や、ゲイリー・W・ギャラガーの「The Battle of Gettysburg: The Larger Issues」などがある。

これらの書籍は、ゲティスバーグの戦いの戦略やその影響について詳しく解説している。

ノルマンディー上陸作戦(1944年)

この作戦は、連合国軍がドイツ占領下のフランス、ノルマンディーに上陸した戦闘において実行された。

大局的に見れば、連合国はこの戦闘を通じてヨーロッパ大陸への足がかりを確保し、その後のフランス解放とドイツへの侵攻を可能にしたといえる。

上陸作戦自体は多大な困難と犠牲を伴ったが、それでも連合国はこのリスクを冒す決断をした。

その背景には、既に東部戦線でソ連がドイツに大打撃を与えていたこと、また連合国軍の航空優勢と物資補給能力が確立されていたことなどがあった。

さらに、連合国はドイツの防衛を混乱させるために、膨大なデマと偽情報を利用した諜報戦を展開した。

これにより、ドイツは連合国の本当の上陸地点を予測できず、その防衛力を適切に配置することができなかった。

このような大局的な視点からの戦略と行動は、連合国がヨーロッパにおける戦局を有利に進める大きな契機となったというわけだ。

参考文献としては、Stephen E. Ambroseの「D-Day: June 6, 1944: The Climactic Battle of World War II」やAnthony Beevorの「D-Day: The Battle for Normandy」などがある。

これらの書籍は、ノルマンディー上陸作戦の詳細な戦略やその結果について詳しく記述されている。

まとめ

大局を見ることの大切さは私も常日頃から説いているし、自分自身でも意識していることの1つだ。

今を全力でやり切ることが結果として成長へ繋がる最短ルートなのだが、立場上、そこに大局を見ることで道標を定めるという重要なタスクもついてくる。

そして、適材適所に価値のある人をアサインする必要がある。

当然、人には様々なタイプがあって、私と同じようなタスク処理の進め方をしても成果が出る人もいれば、全く成果が出ない人もいる。

あくまで、stak, Inc. のCEOである、植田 振一郎のやり方であって参考にする程度でいい。

そこにオリジナリティを自分で入れることができるようになれば、その人の成長は加速するというわけだ。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。