似て非なる疑い深いことと信用していないこと
私はよく人を信用していないという話をする。
これは本当に本心から言っている発言で、すべての人を心から信用すると、とんでもないことになるということは改めて声を大にして主張しておこう。
ただ、今回のテーマの狐疑逡巡のように、疑い深いから決心がなかなかつかないこととはレイヤーが違う。
なにが言いたいのかというと、疑い深いのと人を信用していないというのは、似て非なるものだということだ。
疑い深いという心理の根底にあるもの
まず、疑い深いということは、判断ができなくなるという結果になるという因果関係になりがちだということだ。
まさに今回のテーマである、狐疑逡巡の意味のとおり、人の言動に対して猜疑心が働くことで、決心ができなくなるということになりがちだということだ。
例えば、転職しようと思っているのに、転職先が怪しいと疑い深くなりすぎると、決心がつかなくなるといった具合だ。
けれども、怪しさというのは自分自身から生まれていくというよりは、第三者が持ってくるものだという点に留意したい。
つまり、自分自身は転職をすると決めているのに、誰かに相談したときに、その会社って本当に大丈夫かとかあまりいい噂を聞かないなどと吹き込まれると判断が鈍るということだ。
人生においてはこういうことが往々にして起こる。
余計な相談をしている人が多いということに集約されてしまうのだが、決断をするときに無駄に誰かに相談をしない方がいいということだ。
よっぽど信用できる、信頼できる人でなければ、あなたのことなど親身になって聞いてくれる人などいないことに、もっと気づくべきなのである。
転職を相談した相手が、本当に親身になっているのか。
もしそれで転職を取り止めたときに、その人は責任を取ってあなたを導いてくれるのかという話である。
ただただ、適当に相談に対する答えを発していると思った方がいい。
残念ながら、それほどまでに人というのは適当に生きている人が多い。
勘違いしてもらいたくないが、疑い深いことは、決して悪いことではないと思う。
慎重に検討して判断を下すということは大切なことだけれども、その疑い深さがどこから来ているのかが重要だということだ。
自分自身で感じた根拠のある疑い深さなのか、他人から吹き込まれた疑い深さなのか、しっかりと見極めなければならない。
信用していないという心理の根底にあるもの
一方で、似たような概念として捉えがちな、信用していないという心理についてだ。
この信用していないという心理も第三者に吹き込まれていることもあるが、自分自身が主体となって判断している場合の方が多いはずだ。
あの人は信用ならないというのは、直接なにかをされたり、信用できる周りの人からの情報だったりする。
つまり、なにかのエビデンスというか、きっかけがあって信用できないと判断をしているというわけだ。
仕事で納期を守らない人は信用できないという具合で、この人に仕事を振っても大丈夫かなという、その前段階のところはすでに過ぎ去っているということである。
この部分で、私は人をそもそも信用していないことにしているのだ。
なぜ人を信用しないのか?
そもそも私は、人に対して極力、信用するようにしていた。
けれども、月日を重ねるうちに、人を信用しすぎると無駄が発生しやすいことに気がついたのである。
こういう書き方をすると、私のことを非人道的だと思う人もいるようだが、そこは否定しておく。
まあ、そう思われたところでどうでもいいのだが、信用を前提にすべてを進めてしまうと、後々やり直さないといけない場面も増えるということを主張している。
仕事というのは、できるだけ自分が動かなくてもいいような体制を築き上げていくことが重要だ。
というのも、全体を指揮しないといけないわけで、そうなると人を動かさないといけないというわけだ。
だったら余計に人を信用しないと回せないと思いがちだが、その逆だ。
人を信用し過ぎていると、トラブルが起きたときに大変になる。
なぜ、こんなこともできていないんだということが立て続けに起こると、それこそ収集がつかなくなるのである。
一方で、どこかで人を信用していないと、トラブルが起きることを前提にしている部分があるので、なにが起きても対応がしやすい。
もちろん、トラブルなんて起きない方がいいに決まっているのだが、なにか行動を起こせば必ずトラブルは起きる。
そうなったときに、人を信用し過ぎていると立ち直れないくらいの打撃を受ける場合があるということだ。
人を信用しないと生きていけないのか?
こういう主張をすると、やはりマイノリティなので、白い目で見られるような感覚を受けることがある。
けれども、私は人は信用しないが、信頼している人はいる。
こういう書き方をすると、余計にややこしいヤツだと思われるかもしれないが、信用と信頼は大きく異なる関係だ。
このことについては、何度もしつこく書いているので、是非読んでもらいたい。
なぜ、こんなにもアツく語るのか、改めて書いておこう。
簡単にいうと、過去を信用し、未来を信頼するという関係にある。
紹介した記事にも同様のことが書いてあるが、もう少しわかりやすくいうと、信用とは過去の行動や成果を評価して確かなものであると受け入れることを指す。
一方で、信頼とはある人物に対して、未来の行動を信じて期待することを指すという違いがある。
信用はどこかビジネスライクなところが大きくなるが、信頼は信用の積み重ねという側面もあるが、主観的なものも大きいという特徴もある。
信頼は無条件に相手の行動を信じることもその意味に含んでいるということで、不確定要素が多い中で信じることは信頼というわけだ。
となると、闇雲に信頼してしまうと破綻してしまうということも理解できるだろう。
それから、信用している人はたくさんいるけど、信頼できる人はいないというのも問題だということだ。
この理論に当てはめると、私は信用こそしないけれども、信頼する人はいるということになる。
となると、果たして私の考え方はマイノリティだからといって無下にされるだけではなくなるのではないだろうか。
少なからず、共感してくれる人はいるように思う。
まとめ
私が人を信用していないことは書いてきたとおりだが、世の中は信用によって成り立っていることは忘れてはいけない。
つまり、人を信用しないことと信用を大切にしないということを混同してはいけないということだ。
まずは、信用を積み上げていくことが、なによりも大切だということに変わりはない。
そして、この信用というものは納期を守ることで生まれるということも私が常々発言していることだ。
納期を守れない人に信用など生まれるはずがない。
仕事をいつまでに終わらせるのか、約束を守ることが納期を守るということで、これができない人や続かない人に信用は生まれない。
なにかやりたいことがあるとか、成し遂げたいと思っていることがある人が、まずやるべきことというか続けないといけないことは、信用を積み上げていくことだ。
くり返しになるが、世の中は信用で成り立っている。
そして、信用がある人という立場にいることができれば、将来の不安も少しずつなくなっていく。
信用がある人には仲間が集ってくるので、必然的に仕事がある環境になる。
仕事があるということは、お金を生み出すこともできるので、おおよその人が抱える不安というものは払拭されるというわけだ。
そこに信頼できる人が加われば、なにも恐れることはない。
一度しかない人生を前向きに進んでいくためには、人を信用していなくても問題ないということである。
【Twitterのフォローをお願いします】
株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。