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エンディングをつくるのは自分自身

自作自受(じさくじじゅ)
→ 自ら行った悪事によって、その報いを自分が受けること。

悪いことはできないという戒めの言葉だと理解した。

ただ、エンディングがどう転ぶかは自分次第でもあるし、不可抗力もあると思っている。

なにが言いたいのかというと、意図せず結果として、悪事となってしまったということは世の中にはたくさんあるということだ。

そして、エンディングをつくりだすのも判断するのも自分自身だということだ。

良いことも悪いことも同調から生まれるという事実

大前提として、同調することに対しては悪いことだとは思っていない。

むしろ、ポジティブに働く同調はエネルギーになるし、本来であれば突破できなかったような場面で奇跡的な力を生み出すこともあると思っている。

こういったポジティブな同調がある一方で、やはりネガティブに働く同調の方が大きいと感じている。

同調圧力という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれない。

3人いると派閥が生まれるということもよくいわれるが、まさにこのことも関係しているように思う。

特に日本人にはその気質が強い傾向にあると感じている。

その理由は大きくわけて2つあると思っている。

日本で同調圧力が生まれやすい理由

1つ目は、日本が島国で他国からの侵略を受けていない国だという点にあると思う。

第二次世界大戦に負けて、アメリカに侵略されているようなものだという声もあると思うが、絶対的な支配下にあるわけではない。

この話を拡げていくと、移民を受け入れることに対して否定的な人が多いという国民性にも繋がると思っている。

外国人がたくさん日本に来ると犯罪が増えるといった思考になる人がまさにそれなのだが、これは単純に免疫がないだけだともいえる。

つまり、島国で生活していく以上、外部からの人があまり来ないという状況に慣れている。

もちろん、狭い日本とはいえ、文化や方言といった違いはあるが、言葉が通じないとか最低限のマナーみたいなところは共通するところが多い。

となると、内側に籠ろうとするという心理がずっと働いてきたのだと思う。

また、古くは農業などの第1次産業がメインとなっていた時代には、労働力が最も重要な資産だった。

はやくに結婚させて子どもを産むことが当たり前だったし、かつては男尊女卑も当然だった時代があったわけだ。

この流れになると、一族の絆のようなところに重きが置くことになるのは理解できると思う。

大きな組織で動くことよりも守りに入ることの方にベクトルが向くため、同調圧力が生じていくというロジックだ。

2つ目の理由は、やはり教育だろう。

義務教育のみならず、もっと幼い頃から人と違うことをやると叱られるというのがデフォルトだ。

教育というと勉強に関わる場面をイメージする人が多いと思うが、それだけではない。

ピアノを習うとか、ダンスを習うといったような習いごとをする場面でも少なからずこの傾向はある。

叱ることは悪いことではないが、せっかく好きだったことが嫌になってしまう、つまり本来は伸びるところだったのかもしれないところを潰してしまう可能性があるということだ。

私の母親は音楽が専科の教師だったので、当然ピアノが弾けるし、実家にはグランドピアノが置いてある。

ずっとそんな環境にいたのに、私をはじめ3兄弟は誰もピアノが弾けない。

姉と弟がどうだったのか記憶が定かではないが、私は小学校のときにピアノを習いに行っていた時期がある。

けれども、全く楽しくなかった。

ピアノを習ったことがある人からするご、バイエルという教科書から始めるのが一般的だ。

これが死ぬほどつまらない。

そして、人と違う鍵盤の弾き方をしたら、そうではないというところも指摘されて嫌になっていくと、いつの間にかピアノをやらなくなるということは、あるあるだろう。

そんな私だが、最近突発的にピアノが弾きたくなることがあり、実家に行ってポロンポロンやるときがある。

そのときに参考にするのはYouTubeなのだが、弾きたいと思った曲の解説をしている動画の真似をするだけだ。

これが少しずつできると楽しくなってくるのである。

そう、自分が弾きたいと思った曲を最初から弾けばいいのに、基本だとか基礎に重きを置きすぎて嫌になるというところを指摘している。

もちろん、基本や基礎が要らないと主張しているわけではない。

なぜそこか重要なのかを説明する前に、つまらないところから始めるから多くの人が挫折する。

そんな教育の場面が一般的なので、同じような考え方しかできない人が量産されることを指摘している。

となれば、当然、同調圧力が生まれるだろう。

世論によって変わる結果

加えて、同じようなことなのに結果が変わるということも多々ある。

刑事事件として立件されたような案件、もっと下世話なところでいけば有名人の不祥事や不倫騒動なんかもそうだ。

その人のイメージや世論の反応の仕方に合わせてメディアが結果をつくりあげていく。

その報道を見た人たちが、さらに世論をアップデートさせて同調圧力を生んでいくというのが、世の常だ。

となると、基本的にはポジティブな話題よりもネガティブな話題の方が数字が取れる。

数字が取れるということは売上になるということだ。

本来は大したことでなかった話題もネガティブに持っていくことで話題になればいいという考え方がどこかに生まれてしまうという負のスパイラルが起きている。

多くの人はそのことに気がついているが、それでもやはり同調圧力に屈してしまうことは多々ある。

この人には逆らえないとか、大人しくしておこうという空気を読むとか忖度が働くわけだ。

つまり、真実が捻じ曲がって伝わることが往々にしてあるわけで、情報を簡単に鵜呑みにしてはいけないということだ。

とはいえ、なかなかそんな意識をずっと持ち続けることは難しいだろう。

なので、これだけは覚えておいて欲しい。

エンディングをつくりだすのも判断するのも自分自身だということだ。

本当に悪いことなのかの判断

世の中には、誰が聞いても悪いことだということはある。

基本的には法律を犯してしまうことだということだと思えばいいのだが、その法律も人がつくっているものだし、場所によっては異なるものだ。

となると、自分自身が本当に悪いことなのかを適宜判断していかないというわけだ。

ただ、結果として悪いことだという判断をしたとしても、そのことで全てを失うわけではない。

なにが言いたいのかというと、悪い結果となってしまったということが往々にして起きる時代だということだ。

これだけスマホが普及してインターネットが完全にインフラとなり、SNSの最盛期を迎えている時代においては、くり返しになるが、真実が真実として伝わらないことが起きる。

本当に伝えたかったことと違う方向に拡がりを見せてしまうことが多々あるということだ。

そして、自分の都合のいいようにそちらに捻じ曲げようとする穿った人たちがいるということも知っておくべきだ。

こういう心構えがあるだけで、いざそういう場面に自分が遭遇したときに、焦らずに対応ができる。

こちらもくり返しになるが、世の中で話題になることはポジティブなことよりもネガティブなことの方が圧倒的に多い。

つまり、ネガティブな話題に出くわしたときに、本当に悪いことなのかを自分なりにしっかり判断をする癖をつけた方がいいということだ。

まとめ

私くらいの立場であっても、目立ちたくなくても勝手に話題にされることがある。

そんなときはやはりネガティブな方向での場面が多いのだが、私の場合は妬み嫉みがそうさせていることを完全に理解しているので華麗にスルーする。

若い頃は1つ1つに全力で対応していたのだが、時間とエネルギーの無駄だということを悟ったからである。

そして、こうして毎日ブログを書き続けることで、自分自身が情報を発信することの重要性も理解している。

当たり前だが、自分のことが全て正しいとも思っていないし、自分の考え方の全てに同意してもらいたいという気持ちは微塵もない。

何度も書くが、私が大切にしていることは、エンディングをつくりだすのも判断するのも自分自身だということだ。


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植田 振一郎 Twitter

株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。