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小学3年生から4年生にかけて味わったトラウマ

三尺童子(さんせきのどうじ)
→ 7〜8歳の子供のこと。

7〜8歳という年齢を経験するのは、小学校1年生〜小学校3年生だ。

この頃の記憶は流石にあるという人が増えてくるのではないだろうか。

少し前に、小学生の高学年のときのトラウマの話を書いたが、それなりの反響があったので、お時間ある人は一読いただきたい。

小学生高学年の授業で味わった強烈なトラウマ

まあ、それなりに強烈なトラウマとして私の中には刻まれているわけだが、実はもっと前にも味わっているトラウマがある。

せっかくのテーマなので、小学校3年生〜4年生にかけてのトラウマについても紹介しよう。

絵に描いたようなような依怙贔屓(えこひいき)

大前提として書いておかないといけないのだが、私の母親は小学校の教員として働いていた。

それも、私が通っている小学校と同地区の別の小学校に勤めていた時期がある。

専門は音楽だったが、運動会のようなアクティブなイベントのときには、先頭に立って仕切るような先生だった。

そんなタイプの先生だったからか、馬が合う先生もいればそうでもない先生もいたようだ。

冒頭に書いた小学生の高学年で味わったトラウマの舞台となったのは、同業といっていい音楽が専門の母親とそりが合わなかった先生によるものだ。

一方で、その少し前の時代に、これでもかという依怙贔屓(えこひいき)にあった体験もしている。

私の通っていた小学校は、小学1年生と2年生が同じ担任の先生、小学3年生と4年生が同じ担任の先生、小学5年生と6年生が同じ担任の先生という仕組みだった。

要するに、2年おきに卒業まで3人の担任の先生が受け持つとうものだったのだが、2回目の担任の先生はH先生という恰幅のいい女性の先生だった。

小学3年生になったときにはそこまで感じることはなかったのだが、学期が終わる前の三者面談では、以上に私のことを褒めるなという印象はあった。

普段、私の前ではそんな発言は皆無なのだが、なぜか母親がいる前では異常に私の高評価をするという印象だ。

なんか気持ち悪いなと思いつつも、まあ悪くされるよりはいいのでそんな状態で小学3年生という時代は過ぎ去っていったと記憶している。

小学4年生の課題

そして、小学4年生になると、毎週とある課題が出されるようになった。

詳しいタイトルは覚えていないが、小学生新聞だったように思う。

月に1回、自分の中で起きた出来事をA3の紙に新聞のように書いて、翌月の月初に提出するというものだ。

課題といっても自由課題だったかもしれない。

というのも、私は面倒だからということで、課題が始まった当初は全く提出しなかった気がする。

ところが、毎月頭に書いてきた生徒の新聞が発表されて、第1位〜第3位までの表彰があると、受賞した生徒はヒーローのような扱いになる現象が起き始めていた。

受賞者の発表があるのは、授業が終わった後の終わりの会という15分くらいの全員が集まっているときだ。

そこで、第3位から順番に発表されていくわけだが、毎回結構な盛り上がりをみせるので、必然的にヒーローのようになるわけだ。

そして、受賞した新聞は教室の後ろに次の受賞があるまで、貼り出されて休み時間になると他のクラスの生徒も見に来るといったこともあった。

そんなこんなで、そんなに深い考えもなく、私も1回は書いてみようと思ったのだろう。

とあるときに、なんとなくフワッと書いた小学生新聞を提出した。

すると、私が初めて書いた新聞が常連の受賞者たちを押しのけて、第1位になった。

担任はH先生だ。

今月の第1位は初めて書いてきてくれた植田くんに決定という発表に教室内がどよめいたのは鮮明に覚えている。

ただ、それは嬉しさからではなく、完全なる違和感だ。

本物志向になったきっかけ

初めて書いた小学生新聞が第1位を取った。

普通なら、嬉しくて誇らしいことなのだろうが、私の場合にはいやいやちょっと待ってくれという違和感しかなかった。

というのも、自分の中では全く納得した内容になっている新聞ではなく、むしろやっつけ感があふれるものだというものだった。

そして、いつもどおり、1ヶ月という期間、第1位〜第3位までの新聞が教室の後ろに貼り出させるわけだが、案の定、私の新聞には誰も集まっていない。

一方で、第2位、第3位の常連の受賞者たちの新聞には多くの生徒が列をなしている。

そりゃそうだ、私の書いた新聞はつまらないから。

なぜ、私が初めて書いた小学生新聞が第1位になったのかは、完全にH先生の依怙贔屓(えこひいき)だと思った。

なんのために、私にそんなことをしていたのか、あるいは本人はそんなつもりはなかったのかもしれないが、私には明らかに沿う感じる場面が多くあった。

それは、他の生徒も感じていたように思う。

なぜ、植田くんだけH先生は優遇しているんだという違和感だ。

一度、書いた新聞はなぜか続けて書こうと思った。

それは、明らかに私の新聞が第1位ではないということは、自分自身がよくわかっていたし、その第1位の賞状を取りに行くのが本当に恥ずかしかったからだ。

そこからは、自分が本当に納得のいく内容の新聞を書こうと決めたのだ。

誰になにをいわれても自分が堂々としていられる新聞を書こうと決めた。

私は本物志向だ。

もしかすると、そのきっかけをつくったのは、この小学生新聞のトラウマがきっかけかもしれないと今改めて思う。

小学4年生の本気

ということで、少しずつだが私の小学生新聞はアップデートしていく。

常連の受賞者たちの新聞が、なぜ面白いと思われるのか分析もしたし、自分が無理なく楽しく続けて書くことができるコンテンツはどういったものなのかなど必死に考えた。

そして、毎月それを試験的に出しては他の生徒の反応も見るようにした。

絵が全然得意ではないけれども、4コマ漫画を入れてみたり、来月に続くことで引き続き興味を惹いてもらえるようなコンテンツを考えたり、視覚にもこだわった。

カラーを入れた方がいいのか、あえて1色でいった方が見やすいのではないだろうか。

字があまりにもギッシリありすぎると見辛いのではないか、どれくらいのフォントサイズが見やすいのか、字はキレイかなどなどこだわった。

もちろん、今でこそコンテンツとかフォントといった言葉を使って言語化できるが、当時はそんな言葉は知る由もない。

また、全てが手書きなので、非常に時間がかかったことを覚えている。

それでも、徐々に私の小学生新聞が人気を博すようになることが、本当に楽しかったし嬉しかった。

正直、細かい内容は全く覚えていないが、どこかにないだろうかと今でも思う。

当時の私のモチベーションは絶対に毎月第3位以内に入るということで、実際にそれは続いたと記憶している。

今こうして、毎日ブログを書くことに対しても耐性があるのは、もしかすると小学4年生のときの小学生新聞が影響しているかもしれない。

まとめ

音楽の授業で味わったトラウマとは、また違うタイプのトラウマを紹介したが、H先生がどういう気持ちだったのか本当に気になる。

仮に私のモチベーションを上げるためというか、私がそうすれば必死になって小学生新聞を書くということをやるだろうという意図的なものだったとしたら大した先生だ。

ただ、私の場合には本物志向になろうという方向になったが、人によっては恥ずかしくて二度と書かないという選択をした可能性も否めない。

家庭から解き放たれ、様々な大人や同級生、先輩、後輩と触れ合う小学生という多感な時期における経験はその人の根本を形成する気がしている。

三つ子の魂百までではないが、本質というか思考の最も根っこにある部分は大人になってもどこか残ったままなのかもしれない。

というのも、私の小学4年生のときの大きな記憶はそれくらいしかないのである。

これをトラウマと表現することは少々ズレているかもしれないが、結果オーライだ。

私は本物志向でいたい、そうありたいという方向に舵を切って、実際にそれを実行した小学4年生の植田 振一郎くんを心から褒め倒してやりたいと思う。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。