19歳クウェートで抱いた疑問の答えを、10年後のネパールで見つけた話(前編)。
こんばんは。
今日は、クウェートと、ネパールの話をしたいと思います(前編)。
人生初の海外、クウェートへ。
19歳の夏、中東のクウェートに留学しました。
なぜクウェートかというと、「留学」がしたかったからです。
私は、浜松市で生まれ育ち、必死に勉強して東京の大学へ進学しました。
努力をすれば、なんでもできると思っていました。
しかし一瞬で、地方と都会の格差を感じました。同級生は、両親の仕事で海外滞在の経験があったり、高校生で留学をさせてもらっていたり、経験値が全く違うことに気が付きました。
大学入学という同じスタートに立ったはずが、地方出身というだけですでに後れをとっていることがとても悔しく、周りに追いつきたい一心で、留学することにしました。
たまたま、「この大学で一番おかしな言語を専攻したい」という不純な理由から第2外国語としてアラビア語を専攻していたことから、クウェート政府が募集していた国費留学生に応募し、留学できることになりました。
クウェートで、初めて経験したこと。
2つあります。
差別を受ける。
差別をする。
ということです。
クウェートという国は、超移民大国で、全人口のうち、クウェート人は全体の3~4割のみで、残りは出稼ぎの外国人労働者が占めています。
砂漠の小国だったクウェートに石油が出たことから、急ピッチで経済が発展し、国を回すために大量の人手がいるところ、近隣アラブ諸国、アジアなどから移民を集める政策がとられました。
そのような超移民大国では何が起こるのか。
ここから先は、私が体験したことをもとに、感じたままを書きますので、あくまで個人の意見であり、事実と異なる部分もあるかもしれません。
クウェートは、とんでもない階級社会だった。
クウェートで一番感じたことは、この国では、暗黙の了解で、国籍毎に、社会的地位や就ける職業、さらには人としての価値が決まっているということでした。
当時の感覚だと大体こんな感じです。
続いて、国籍毎に就ける職業のイメージはこのような感じです。
「アジア人ならどんなに給料が安くても何でもやる」と、出稼ぎ労働者の足元を見られているというところでしょうか。
当時のニュースでは、「バングラデシュ人の道路清掃員たちの給料未払い」のニュースを見ました。フルタイムで働いて月数千円という世界です。しかし、給料未払いに抗議したバングラデシュ人たちは強制送還されたそうです。
差別を受けた話。
「アジア人女性」=売春婦。
というイメージはどこの国に行っても定番なんでしょうか。
道を歩いていたら、クラクションを鳴らす車に追いかけられ、卑猥な言葉を言い捨てられたり、寮の庭をウォーキングしているだけで、じろじろと見られ敷地の外から、卑猥な言葉を浴びせられたり。
自分の見た目や国籍だけで、ぞんざいに扱われるという経験は初めてのことで、悔しさや無力感を感じました。
差別をした話。
アジア人として横柄な態度をされた後、日本人だとわかった瞬間、「日本人なの!」といって、コロッと尊敬の眼差しを向けられることが何度かありました。
他の留学生は誘われないのに、韓国人と日本人の留学生だけ、クウェート人からお茶に誘われることもありました。
普段、抑圧されている中で、日本人というだけで特別扱いされることは正直気持ちのいいものです。だんだんと感覚がマヒしてくるようになります。
また、たしか、寮母のような人から、南アジア系の男性について、
「あの人たちは何をするかわからないから、会話をしたり目を合わせたらだめだよ」
と言われたこともありました。不思議と、自分もその価値観を信じるようになっていきました。
クウェートでの生活に適応する中で、他のアジア人を下に見る、接触を避けるという価値観が、自分の中で当たり前になっていきました。
自分より弱い者を下に見ることでしか、自分を保てない社会。
クウェートという国を批判したり、自分を被害者っぽく見せたいのではありません。ただ、自分は人として弱かったなぁと思います。
クウェートのように、国籍や人種による「分断」が固定化している社会においては、お互いがお互いを差別し合ったり、少しでも自分より弱い者を下に見ることでしか、自分の心の安定を保てなくなるのではないかと思っています。
例え、どの階級にいても、上にも下にもいけない社会というのは、精神的にとてもしんどいはずです。
帰国後、冷静になってみると、クウェートの社会全体がそうであったからしょうがないと思いつつ、簡単に人を差別することのできる自分の弱さに、もやもやする日々が続きました。
しかし、そのもやもやの答えを、10年後のネパールで見つけることになります(続く)。