きっと、私は父のおかげで生きてこれた
”親は子どもを全肯定してくれる存在“
そんなの私にとっては迷信だった。
だって、全肯定してもらえたと思ったら次は奈落の谷に突き落とされる、それが母と私の日常だったから。
小学校の時に全国で2位を取った作文コンクールの後、母は私をとびっきり褒めてくれた。私は初めて大きなコンクールに入賞し、大好きな母が喜んでくれて上機嫌だったことも相まって、これまでに感じたことのない高揚感だった。
でも、数週間たったある日、そんな自分を大いに悔やむことになった。
母と何かの拍子に喧嘩をした時、もつれにもつれなぜか受賞の話が引き合いに出された。
そして、「あんな賞とれたのはあんたの実力じゃない。指導してくれた先生に恵まれただけ。」と母は言い放った。
ぐっと胸の奥が痛み、言葉を失ったのを記憶している。追い討ちをかけるように「どうせあんたなんか」と母お得意の常套手段を使ってフィニッシュされた。
大人の言葉なんて信じちゃいけない‥。そう強く思った始まりだった。
山頂まで一気に舞い上がった気持ちは、山颪のように斜面を急降下。その落差が何より記憶に残ったのか、20年たった今でもシツコク覚えている。
母がカッとなると投げてはいけない言葉のナイフを投げてしまう、ということが長年経ってようやく分かった。恐らく本心ではない場合もあるし、相手が一番傷つく言葉を咄嗟に選んでしまうだけだと理解できるようにもなった。それでも、言ってはいけない言葉があるではないか?とどうしても思ってしまう。
だからこそ、私にも時々垣間見える「言葉の暴力性」を自覚した時には、恐怖を感じた。人が大いに傷つく行為を、私も誰か大切な人に向かってしてしまうのか?と自分の存在自体を何度も呪った。
逆転の発想
だけど、先日パートナーからこんな一言をもらった。
「桃子さんの非暴力的な部分は、お父さんからのギフトだと思うよ」
自分の暴力性に怯えていた私にとって、パートナーからの評価は、意外オブ意外。
さて、ここまで全く話題に上っていなかった、薄印象派の父(笑)
我が家は完全に「かかあ殿下」形式で、気の弱くいつも自信のない父を母がいつも先導していた。
私は正直、ずっと父を頼りない存在だと思ってきた。自分の意見をほとんど言わないので、これだけ母の暴力的な一面を嫌悪しながらも、何か困り事があると必ず母に頼っていた。
だから、私は自分が恐らくもっとも欲しかった「非暴力的」という称号を、まさか父経由で頂けるなんて想定していなかったのだ(笑)
でも、よくよく考えると、父は真に「非暴力的」だ。
私のことを全く悪く言わないし、父から耳にタコな程「桃子の幸せが、お父さんの一番の幸せ」と言われ続けてきた。
別に全くロマンチストではないと思うが、誕生日などの特別な日だけでなく、日常的に私にこの愛のある言葉のシャワーを浴びせ続けてくれていた。そして、いつも何よりも私の思いを優先し応援し続けてくれながら、この言葉を現実身のある形に落とし込んでくれた。
”親は子どもを全肯定してくれる存在“という定義がもしもあるならば、私にとっては父がそれに当たるのだろう。
認識のカラクリ
なのに、何ということだろう。
私という人間は、目立って印象的なことばかり、それも良い記憶よりもショックだった出来事の方が鮮明に覚えている。父の日々与えてくれた肯定には目もくれず‥(ごめん)
そして、敵対視するほどの母にこそ、私は評価されたいという思いが強かったことも改めて思い知る。だから、父がどれだけ私を肯定してくれようとそれは(母による)マイナスをゼロにすることはできても、ゼロをプラスに変えることはできない、そんな印象だったのだ。
でもよく考えると、私が自分の自覚する暴力性をぐっと抑えられている(とパートナーは思ってくれている)のは、恐らく父のおかげだったのだ。母のことに限らず、凹みやすく内向的な私を、何度も何度も見返りを求めず励まし続けてくれたのは父の功績だ。
「チャレンジしたい」という芽をそだてられるよう、凹んだ土を耕して平らにし、水を与え続けてる。また嵐にあって凹んでも、折れることなくこの作業を繰り返してくれていたのだ。
そのありがたさに、今更気づくなんてね。
しかも、自分自身で気づけないなんてね。
なんて愚かでちっぽけなのだろう、自分。
つくづく、自分のことは見えているようで何も見えないなぁと思った出来事。家族のことも近すぎてみえない。お父さんも、お母さんも、これからもずっと見えないのかもね。
気づかせてくれたパートナーさんも、ありがとね。