ペルーでのサンペドロ儀式 #1 究極のマインドフルネス体験をした
ペルーにアヤワスカを飲みにいった。
アヤワスカ儀式2日間
休日1日
アヤワスカ儀式2日間
最後にサンペドロ儀式1日間
という流れ。
アヤワスカとサンペドロどちらが好きかというと私はサンペドロ派ですね。
自分的にサンペドロの方が修行味があった。
腸の下方にずっとサンペロが溜まってる感じは、もう不快でしかなかった。
食べすぎて腹が不快な時と同じ感じ。マジしんどい。サンペドロが食道まで上がってきてゲロ吐きそうなったが吐いたらダメらしく無理やり飲み込んだ。
不快に苦しんでいるのは自分だけだと思っていたので、「朝食食べなきゃよかった」「これ10時間続くの無理ゲーやろ」「キャンフリって言ってたから楽しい感じかと思ったのに不快でしかない」って後悔しかなかった。
確かにキャンフリのように視界が鮮やかでLOVE〜🩵な感覚はあった。ただパーティーで使うには自分にとってお腹が不快過ぎた。というのが最初の1.2時間の感想。
お腹の不快さに居ても立っても居られない感じでずっとソワソワ。向精神薬の副作用のアカシジアのようだ。
だが周りを見渡してみると、不快なのは意外と自分だけじゃないということに気づいた。みんな額に皺を寄せていた。
その瞬間、「これひょっとして、この不快な感覚をどう処理するかの修行じゃね?」と思った。
「なるほどね〜😁」とニヤニヤ。腹の不快感は続いていたが、一気に楽しくなってきた。本当に修行が大好きなのだ私は。
私はいつも身体に不調が起きたり、不安が湧き上がった瞬間、すぐに身体の感覚に意識を全集中させる。(マインドフルネス瞑想と催眠療法でこの方法を習った)
そうすることで不思議と思考が消え、身体の痛みや不安がおさまるのだ。肩凝りもそれでマシになる。(なぜかは下で言う)
サンペドロを飲んだ直後からひと時も止まない腹の不快感に対し、「不快だ不快だ」と考えることを辞め(思考を手放し)、目を瞑ってどこが1番気持ち悪いかトラッキング(追跡)し全神経をそこに集中させた。
その不快な部分と、自分の意識・身体を同化させた。それが身体の感覚に集中するということなのだ。
お腹の不快な思考は消失し、なんと私は木になった。非常に非常にマインドフルな状態だった。木ってこんな感じなんだ。周りに対して自分に対して何も価値判断をしない。no judgmentの世界。ただ存在するだけ。思考しない。囚われない。あるのは感覚だけの世界。なんて平和で美しい。この生き方はとても楽だ。エゴによる価値判断を加えないから、その先に苦しみが生まれない。
やってみて欲しい。自分の腕に痛いと思うまで爪を立てる。それは「痛い」と言葉で思考している状態。痛みを拒否している。
次に、その痛みの部位に意識を全集中させ、痛みの感覚を受け入れて痛みと同化する。言葉がなくなり思考が止まっただろう。痛みや不安に伴う心拍数や血圧の上昇も下がっているはずだ。
これがいつもいうマインドフルネスだ。
マインドフルネス瞑想とは、ヴィパッサナー瞑想の宗教色(五戒)をとったもの。ただ単にリラックスするとかではない。集中力の修行だ。なぜなら、身体の感覚に意識を向け続けることは至難の業だから。途端に思考が出てくる。
(心と身体の不調を抱えている人は、往々にして集中力がない。またこれは今度詳しく話す。)
心と身体は繋がっているので、心が辛くてどうしようもないなら、身体のどこでその辛さを感じているのか探して、そこに全神経を集中させ感覚を感じ切ればよいのだ。そうすれば心の辛さ感じ切ったことになる。
マインドフルネス瞑想を日常で行なっていると、自分が身体のどこで感情を感じているか直ぐに追跡・特定できるようになってくる。
ここで、「思考」と「感覚」の違いについて述べる。
思考は動物の中で人間に唯一与えられた素晴らしきものであるが、それは物事の悪循環を生み出すものでもある。
思考が悪循環を生み出すことを、痛みや不安を例に説明する。
「痛み」と「痛い」は違う。
痛みは一次的な痛み。心や身体の侵襲的で実際の傷つき。
痛いは二次的な痛み。一次的な実際の痛みに対して「痛い痛い」と「囚われ」ることだ。
一次的な痛みが起きた時に、痛い痛いと「思考」し「この痛みはやばいんじゃないか」と不安や痛みに「囚われ」ることで、二次的な痛みが上乗せさせられる。こうすることでさ更に痛みが増悪し悪循環を招く。
不安も同じだ。不安が湧き出た時に、「こうなったらどうしよう」と、その内容を「思考」し「囚われ」ることでさらに悪循環を生み出す。
脳科学的にも同じ。不安になると扁桃体が活性化し血圧や心拍数が上がる。その身体の情報が再度扁桃体に入力され「身体がやばいことになってる。ってことは私はやばいんだな。」ってなって、さらに扁桃体が活性化し、不安が増悪するという悪循環。
サンペドロの儀式で木になった時、「ただ在るだけ」の状態になった。自分にも他者にも評価を加えず、だから相手や自分をコントロールしようとするエゴ・意図が生まれない。だから苦しみがない。素敵な生き方。
人間は自分の価値観のレンズを通して自分や他人や世界を見る。
それは対象をジャッジメント・評価することに繋がる。そこには自分のエゴが介入している。「他人への期待」「他者をコントロールすること」「自己、他者批判・拒絶」「勝ちたい」「自分が救いたい」などの意図が介入する。
それは同時に恐れや不安、罪悪感、後悔などの苦しみを生む。
私たちにとって大切なのは「持つ」ことでも「する」ことでもない。
私たちにとって大切なのはありのままに「在る」ことなのだ。
サンペドロの儀式は非常に非常にスピリチュアルな体験であった。
ありのままに物事・人を観ると、他者や自分を評価することがなくなり、恐れがなくなる。恐れがなくなると自然と他者や自分へ、親切心と無条件の愛を持って接することができる。
これがスピリチュアルに生きることの一つのありかた。
マインドフルネス瞑想はサンペドロを使わずにシラフで物事をありのままに観る訓練である。人間にとっての苦しみとは執着であり、それはエゴだ。エゴは価値判断することで生まれる。
今回の記事の最後にもう一つ。木になったと同時に、重度の心身障害者になったようだった。(まともな体勢で椅子に座っていなかったのだが、こんな体勢をしても誰もジャッジメントしないと分かっていたから。)
私は昔、重症心身障害者施設で勤務していたことがある。
あの施設で暮らしていた重症心身障害者こそが、無条件の愛の人だったんだと悟った。
彼らには「〜してやろう」とか、「アイツはこうだ」とか他者をコントロールしたり評価することがない。ただありのままの姿で今この瞬間を生きている。
そこには愛しかないのだ。ただあの施設で医師として働いていたが、もっと見習うべきことが沢山あの人たちにあったのだ。
「愛」という文字が含まれている福祉施設の名前が多いのはこのことかとも思った。
次の日から、私はたくさん食べることがなくなった。もっと身体の声を聞こうと思った。過食する人の一部は、お腹(=身体)はパンパンなのに、もっと食べたいという思考に囚われて、身体の感覚に意識を向けることが出来ていない。身体の声を聞いて食事をしていない。私もここ1ヶ月ほどその状態だった。だから、太ってきてた。アヤワスカツアーから帰ってきて1週間したが、だいぶ痩せた。脳ではなく身体が欲しいものしか食べてないし少食になった。
次の記事は、サンペドロ儀式で錯乱?した人がいた人をどうすればよかったのか、ポリヴェーガル理論とソマティックエクスペリエンス、愛の法則に基づいて考察する。
大阪でマインドフルネス瞑想の指導(カウンセリング)をしています。メンタル疾患がよくなるだけでなく、人生の質もかなり上がります。過食も治る。zoomも可能。(これは宣伝という名のエゴではないですよ⁉️笑)