日本酒ライターの彼女に学ぶ「熱意の作り方」。
先週、根津の古民家風・日本酒バーで古くからの知り合いのFさんと会った。
彼女は僕と同年代で、日本酒を仕込む冬場になるとほぼ毎週のように全国の蔵元を回っているという熱血日本酒ライター。人当たりも口調も実に柔らかなのだが、冷もお燗も交えて一杯ごとに様々な日本酒をたしなみ、本当に目をらんらんと輝かせながらそのお酒の由来、味わい方、醸す杜氏さんの人柄まで僕に語って聞かせてくれる。まさに「日本酒愛」に貫かれた愛すべきひとなのだ。
彼女とは以前、「美酒の設計」という日本酒を造り出した杜氏さんの本を出したことがある。お酒の銘柄をそのままタイトルにした本は、Fさんの入魂の取材と執筆、彼女の夫のカメラマンによる素敵なカバー写真によって、僕の手掛けた本の中では数少ない上質なものに仕上がった。
でも、残念ながらそれほど売れはしなかった。
「わたし、あのときほど早く本を書いたこと、なかったのよ。だって企画から発行まで、たった三か月しかなかったんだもの」
何杯目かのおかわりのあと、彼女はそう言って口を尖らせた。
「だから僕、Fさんにあれ、教えたんですよね。効果あったでしょ?」
「バッハ? そうね。あれにはずいぶん助けられたわ」
原稿に行き詰まったらバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」を聴くといいですよ。頭がクリアになって、絶対はかどりますから。たしか僕は発行に間に合いそうにない進行の苦し紛れにそんなことを言ったのだ。
勧めたのはギドン・クレーメルかヘンリク・シェリングか。いまだったらイザベル・ファウストか五嶋みどり、あるいは新譜の諏訪内晶子を推していたかもしれない。ヴァイオリニストにとっては一つの金字塔のような曲だが、それはおそらく、演奏する側の人間性が否応なくさらけ出されてしまうからだろう。
「あの本のこと、いまだに『読みました!』言ってくる人がいるのよ。本もお酒もなかなか見つからないのにね。『もうお酒は造らない』って言ってたあの杜氏さんはまた仕事を始めたわ。彼がどうしてそんな心境になったのか、わたし、どうしても書き残しておきたい。ねえ『美酒の設計』の続編ってできないかしら」
よくよく聞いてみると、彼女にはそんな「どうしても書き残さなくてはいけない」杜氏さんの話がいくつもあるらしい。ある杜氏さんは、その死の床にも寄り添い続けた。ご遺族の方に「必ず本にします」と言ってもう何年にもなるのだとか。
春先になると彼女のもとには全国の蔵元から「今年はこんなお酒ができました」と新酒が送られてくる。
「この業界はみんないいひとたちばかりなの。だからね、わたしも少しはお役に立ちたいのよ」
そしてまた彼女は新しいお酒を注文した。
飲み慣れない日本酒で少しふらふらしながら、僕はあることに気づいていた。
人を動かすのは熱意だし、その熱意を支えるのは「好きだ」というシンプルな感情なのだと。
「私のやってることなんて、すっこしももうからないんだから」と言う彼女は、きっとこの先も同じことを続けていくだろう。だったら僕もやるべきだ。彼女が「どうしても書き残さなくてはならないもの」を実現させるために。
Fさんは最近の僕のことを知って、とても驚き、同時にすごく喜んでくれた。
「いいじゃないの。がんばってよね。わたし、おおいに焚きつけるから」
締めに食べたカレーうどんのなんとおいしかったことか。外に出ると冷たい雨はもう上がっていた。
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