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総括的肯定感

術後25日目

 昨日のリハビリの時間は15:20。炎天下の中の通院は苦しい。
 ゲームで、毒状態やフィールド効果で数歩歩くたびにダメージを重ねていくシステムを実感する。ただ、自分の体力は数値化できない。保冷剤を首に巻く、こまめな水分補給、塩分チャージのタブレットを舐める、など、できる限りの予防をしつつ通院する。タンブラーに入れたお茶は片道だけで無くなってしまう。

 理学療法士さんに若干強めなマッサージをしてもらうと、左足を伸ばす時の張り具合が和らいだ。歩行の時の足首の痛みや、ふくらはぎが硬くなったことも話す。(前日にそれなりの量の歩行をしたため、ガチガチの硬さになていたのだ。)
 どうやら、左の股関節やお尻の辺りの筋肉を使っていないことが影響しているらしい。身体の面白さを感じる。どこかに不都合が生じると、その部分を補おうとしてくれる。俺の無意識下で身体は動いている。
 荷重は体重の2/3までの許可が出た。およそ38kgほど。体重計の上に左足を置き、どの程度の踏み込みでそれだけの荷重がかかるかを確認する。なかなか踏み込む意識を持たないとそれだけの荷重には至らず、しかし普段の歩行時には30kgほどの荷重を自ずとかけれるようにもなっていたので、徐々に近づくのだろうと思う。足の意識というよりも、松葉杖を握る両手がどの程度力を使っているかを意識する方が感覚を掴みやすいことに気づいた。
 来週は全荷重に挑戦するとのことで、普段ももう少し攻めの姿勢で歩いてみるようにと言われる。

自己肯定感について

 これもまた、以前テーマを募集した時に出してもらった。
自己肯定感という言葉は、随分と昔から知っていたように思う。日本人は自己肯定感が低いという言葉とセットで、だ。確かに数値化されたデータによると日本人は自己肯定感が低いそうだが、果たして本当にそうなのだろうかとも疑問に思う。そう思うようになったのはある程度の年齢を重ねてからだが。

 社会人2年目の、何かの研修時にも自己肯定感についての内容があった。その時ももちろん、決まり文句のように日本人の若者は自己肯定感が低いという話があり、その際に隣の先輩に「低い?」と聞かれた。俺の返した答えは「いや、自分のこと好きですね。」だった。先輩に対する答えとしては適切では無かったかもしれないが、その時のその答えは本心だった。

 そもそも、状況に応じて自分を肯定できる時と否定している時がある。大切なことは自分の非、欠点を認められているかどうかなのではないかと思う。高校生の頃は、自分のマイナス的側面を認めることが難しかった。その部分を取り繕おうとして、背伸びをしたり塗り固めようと躍起になったりする気持ちがあった。今でこそ、それは逆効果であると知っているが、当時はそのことには気づけなかった。自己否定感の方が強かったのだろう。

 自己否定感が強いと、周囲への否定感も比例して高まっていくように思う。自分も、周囲も、評価する対象として並べて見た時に、物事を評価する上での価値観が、同一のものであるならば当然のことだ。また、自己否定をしながらも、自分に抗いたい気持ちがあり、周囲を同様に否定することで、釣り合いをとろうとする処世術の一つなのかもしれない。

 ただ、日本人は鼻高々に自分や身内の良さを表出させず、謙虚な姿勢を見せる傾向もある。「うちの子は」「うちの旦那は」「うちの嫁は」と踏みとどまって距離を保ち、領域を確保しつつも、心の中ではそれぞれの良さを認めている。まるで自分だけが知っている宝物を、人目のつかぬところにそっと隠すかのように。特別美味しい食べ物を、夜な夜な一人で舌で転がすかのように。
 自己肯定感のデータを集計した時も、そういった本音とは違う回答が数値化されているものも少なからずあるだろう。

 子どもの自己肯定感を育むにはどうしたら良いか、ということは、保育の中で心がけている。余裕がない時や、切羽詰まっている時はつい、子どもへの注意の言葉掛けが多くなってしまいがちだが、子どもを否定して終えるのでなく、肯定して終えられるようにしている。子どもの持っている良いところを引き出して、輝かせることは保育の醍醐味とも言えるし、それこそが質の良い保育に繋がっていくと思う。

 さて、先に述べた先輩に「いや、自分のこと好きですね。」と返した話に戻ろう。そう思えるようになったのは、自分で自分に対して抱いていた、嫌に感じる部分を受け入れられるようになってからだと思う。すると、友達に対しても、相手の嫌な部分は嫌だと認めつつも、親しみを感じられるようになった。自分を受け入れたが故に相手を受け入れられるようになったのか、相手を受け入れたが故に自分を受け入れられるようになったのかはわからない。ただ、自己肯定とともに他者肯定も自ずと育まれていた。

 自分では気づけていない欠点、短所は誰にでも存在するとは思うが、自分の欠点と短所を誰よりも知っているのは自分だ。そんな自分を肯定できるようになったのか。肯定せざるを得なかったのか。それはまた、別の話。


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