詩歌ビオトープ003:川田順
はい、それでは詩歌ビオトープ3人目です。
3人目は川田順。1882年生まれで、1966年に亡くなっています。
東大法学部出身で、大学卒業後に住友商事に入社、そのままどんどん出世して常務理事にまで登り詰めたそうです。というか、代表取締役に、という話が出たところで「我が器にあらず」といって退職したのだとか。すごいですね。
で、ビジネスマンとしてバリバリ働く傍らで佐佐木信綱の門人となり、1929年に最初の歌集「伎芸天」を刊行。これは浪漫派的な作風だったそうです。その後は歌人としてだけでなく新古今集の研究者としても有名になっていきます。
でも、この人が知られているのは晩年の事件があったからでしょう。というのは、この人は結婚していたのですが、57歳の時に奥さんが脳溢血で亡くなりました。それから5年後、歌人の鈴鹿俊子という女性と恋に落ちてしまうのですね。
それで彼はそのことに罪悪感を感じて亡き妻の墓前で自殺未遂を図るのですが、そのことが世間に知られて大スキャンダルとなったわけです。
また、この時に彼が友人である谷崎潤一郎らに送った手紙に「老いらくの恋」という言葉があり、この言葉がスキャンダルのキャッチコピーになってしまった。
ていうか、何でその手紙がマスコミに知られたんでしょうね。谷崎がバラしたんですかね。まあ、谷崎も色々ある人ですものね。(なんて、違ったらごめんなさい)ちなみに、この事件を題材にした小説なんかもいくつかあるそうです。
さて、いつもの如く僕が参照元にしている小学館の「昭和文学全集35」
には、109首が掲載されていました。そのうち、奥さんが亡くなってすぐに刊行された「鷲」からは59首、スキャンダル後に刊行された「東帰」からは50首が抜かれています。
「鷲」は、全体的に旅行詠が多かったです。一方、「東帰」は老いらくの恋の相手である俊子さんへの恋の歌がほとんどでした。一応旅行詠は僕は自然詠に分類しているので、僕の分類では自然詠が51、相聞歌が32、生活詠が14、社会詠が12でした。なので、こんな感じになりました。
(前回まであった中央の思想詠カテゴリーは意味がないと思ったので消しました)
さて、この人も著作権が切れているので、最後に気に入った歌をいくつかご紹介。
ちなみに、スキャンダルの後日談はどうなったかというと、二人は再婚し、神奈川の山奥でひっそりと暮らしたそうです。でも、「ほっといてほしいのにまたマスコミが来た」みたいな歌もあるので、なかなかひっそりとはいかなかったかもしれませんが。
まあでも、女性から見たら魅力的な男性だったのでしょうねえ。見た目もシュッとしてるし。
スキャンダル云々があろうとなかろうと、僕個人としてはやっぱり相聞歌にいい歌が多いなと感じました。何ていうか、「鷲」の旅行詠なんかは悪く言うと少し知性と技量に寄りすぎ、良く言うと古典派で色調高い感じなのですが、「東帰」の相聞歌は知性と感性のバランスがいいような、僕みたいな一般人でも普通に理解し共感できるものになっている、そんな感じがしました。それが良いことなのか、あるいはそれは堕落なのかは色々意見はあるでしょうが。
ていうか、もしも老いらくの恋がなかったら、この人は會津八一とかと同じ文脈で語られる歌人になっていたのではないですかね。
ということで、4人目に続く。