考えるとは何かとは何か
今日の空、なんかよくないですか? 雲が正に冬って感じで、すごく好きです。
さて、昨日「考えるとは何か」というタイトルで文章を書きました。
その中で僕は「考えるとは、言葉の定義を考えることだ」と述べたわけです。
もちろん、それだけが答えというわけではないし、「そうかなー」と思う人もいるかもしれません。
たとえば、ヴィトゲンシュタインが好きな人なんかは「こいつ分かってねーなー」と思うでしょう。
ヴィトゲンシュタインは僕もとても好きなんですが、彼の思想について何か解釈を述べても、僕なんかはちっとも読めてないと思うのでやめておきます。難しい話なので、知りたい人はちゃんと偉い立派な学者さんの話を聞いた方がいい。たとえば、昨日紹介した野矢茂樹さんとか。
なので、当たり障りのないことだけ書きます。
ヴィトゲンシュタインの主著といえば、「論理哲学論考」と「哲学探究」ですね。で、「論理哲学論考」の時代の思想を前期、「哲学探究」の時代の思想を後期と分けられます。
ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の最後を「語り得ないものについては沈黙するしかない」というとても有名な言葉で締めくくったのでした。
この言葉はまさにその通りだし、この言葉でこの本が終わるというのは、完璧だと僕は思うのです。なぜなら、「語り得ないものについては沈黙するしかない」と言われて僕ら読者の頭に浮かぶのは多分「じゃあ、語り得るものって何?」という疑問だと思うんですが、その答えは「世界」なんですよね。で、世界とは何かというと、この本の冒頭である「世界はことの総体である」になる。
つまり、ループしてるんです。この本。だから完璧。すごいです。無間地獄です。みんな読んだ方がいいよ。読んだら地獄に落ちるけど。
でも、そのことが、この本があまりに完璧であることがむしろ問題だと、多分ヴィトゲンシュタインは考えたのだろうなと思うのです。そして後期の思想へとつながってゆく。多分。
で、前期ヴィトゲンシュタインと後期ヴィトゲンシュタインをつなぐ架け橋となっているといわれている本があります。それが「青色本」です。
「青色本」ってなんか変なタイトルですよね。
1933年、ヴィトゲンシュタインはケンブリッジ大学で数十名の生徒を集めて講義をすることになったそうです。ところが、数週間後に彼は講義を続けることを断念しました。
このとき、ヴィトゲンシュタインは数名の学生にその先の講義の内容を口述し、それを学生たちに読ませることで講義の代わりにしたのだとか。
そして配られた口述のコピーには青い表紙がつけられていて、「青色本」と呼ばれたのだそうです。それが、今僕らも読むことができる「青色本」。
では、ヴィトゲンシュタインの講義とはどのようなものだったのか。
本の冒頭はこんな言葉で始まります。
「語の意味とは何か」
「○○の意味とは何か」ではないんですね。そうではなく、「○○の意味とは何かと問うとは一体どういうことか」ということです。
昨日、僕は「考えるとは言葉を定義することだ」と言いましたが、ヴィトゲンシュタインならきっとこう言うでしょう。
「それは、AをBに置き換えただけにすぎない」
と。確かにね、そう言われたら、そうなのかもしれない。本当に考えるということは、実はそこから始まるのだと。
というわけで、この問題の先は、これからゆっくりのんびり考えていきますし、その中で何か書くことがあれば、また書きます。
とりあえず今日はここまで。
おやすみなさい。