見出し画像

空白


私だけにしか触れることのできない世界で、私だけが知っていることがある。

誰にも話すことのないこの秘密が、私をいつもほんの少しだけ強くしてくれる。


「いつも読んでるよ」って言われて、驚きを隠せなかった。

タルタルソースのかかった牡蠣フライが絶品で、コロッケは一つ45円の破格。生ビールとハイボールが一杯198円の格安居酒屋にて。

数ヶ月ぶりに顔を合わす彼女は、以前よりも綺麗になって、どこか少し大人の空気を纏っていた。

「昔の自分を見ているみたい」なんて偉そうなことを口にして、たったの2歳しか変わらない彼女に恋愛の助言をした。ままごとのような恋愛しかしていないのに、まるで全てを知っているかのように饒舌に語る自分を俯瞰して、途端にとてつもなく恥ずかしくなった。

何時間話したかわからない。時間すらも忘れるほどに彼女と飲むお酒は美味しかったし、ほろ酔いで歩く駅までの道はすごく気持ちがよかった。次回は彼女と一緒に美味しい日本酒が飲みたい。


7月。気がつけば今の会社に入って一年が過ぎた。任される仕事も随分と増えて、何人もの社員の背中を見送った。

あの人今頃どうしてるかなとか、今も元気に働いているのかなとか、時々そんなことを考えながらキーボードをカタカタと叩く。一緒に働いている間はすごく慕っていたはずなのに、してもらったことを忘れそうになっていたことにふと気がついて、そんな自分に腹が立った。

人が忘れゆく生き物だということを忘れてしまう。

絶望した瞬間を、希望を抱いた瞬間を、愛された瞬間を、二度とは訪れない今という瞬間を、私は忘れないでいたい。


久々の休日。出勤日と同じ時間に起きて、公開日からずっと楽しみにしていた映画を観に行った。苦手な都会も、朝は静かで落ち着く。コーヒーを片手にシアターに入り、中央の端の席にそっと座った。

昔から映画館での鑑賞は一人ですることが多かった。私はきっと人とは違うところで涙を流してしまうし、館内にいる誰もが笑っているところで笑えない。そんなことを考えて悲しくなってしまうから、人からの映画の誘いは極力断るようにした。

誰かの隣で映画を観ることに嫌悪感をそれほど抱かなくなったのは、彼のおかげなのかもしれない。

違った楽しみ方を見つけた。暗闇で見る彼の横顔は普段とまた違って、とても綺麗で魅力的だし、ふと香る彼の匂いに安心してしまう。時々眠たそうに首を揺らしている姿を愛おしいと感じるし、普段は見られない彼の涙を映画館で初めて目にした。

一人はやっぱりすごく落ち着くし、私にとって欠かせない時間には変わりないけれど、私の日常に溶け込む彼のおかげで、そこにほんの少しの寂しさを感じられるようになった。そのことが尊く、愛おしく感じたある夏の日の記憶。


「もっと早く出逢いたかった」

確かに聞こえた。聞こえていないふりをして、少しとぼけてみせた。時折見せる表情とか、時々伝わるあたたかさとか、確かにそこに存在するものに、いつまで目を逸らし続ければいいのだろうか。いったい私はいつまで気づかないふりをするのだろうか。

無言の数秒間でお互いの感情の読み合いをする。綺麗なままでいたいから、これ以上はもう踏み込んではいけないような気がする。二度と。


運命ってあると思う。もしもいつかの私の選択でそれが変わるのだと知っていたとしたら、選ばなかった選択肢がどこかにあっただろうか。そんなことを考えながら、電車の窓から見える景色を眺めた。

それでも私は、いつかの私の選択が間違いだったとは少しも思わないし、きっと何度生まれ変わったとしても、これまでと同じ選択をするのだと思う。

同じ場所に生まれ育って、同じ仕事を選んで、同じような場面で躓いて転んで立ち上がって、そしてきっとまた同じ人を好きになる。

私の愛するみんな、この先もずっと一緒にいて。今世でも、来世でも。



「君にすごく似合うから」

そう言って、小さな花束をもらった。そこに添えられていた小さな紙に書かれた文字が、彼の人柄そのものを表していたように思える。

日記に私のことを書いたと言っていた。

日記に彼のことを書いていることは、彼には秘密にしておこう。

貰った二冊の本を本棚に綺麗に並べた。読むのがなんだかもったいなく感じて、まだ読み始めていない。



浮気。読んで字の如く。人間の性だと誰かが言った。悪びれる様子は少しもなく、まるで当然のことのように話す彼らを最低だとは思わなかった。

最低だとは思わなかったけれど、こわいと思った。

「男女って信頼関係の上に成り立つものよ」

63年生きた女性の言葉がどうにも胸に刺さって抜けそうにないから、今晩は私きっと眠れないと思う。


夏目漱石が「月が綺麗ですね」を「I love you」に翻訳するのなら「花は枯れるものだよ」を「君が欲しい」と訳しても構わないと思う。

教えてあげない。本当の私なんて、誰にも、誰にも教えてあげない。

知った気になって、わかった気になって、得意げになって、もっと私が見えなくなればいい。


チョコレートみたいな甘さではなくて、でもコーヒーのような苦さでもなくて、まるで溶けかかった黒糖のような、そういうの。ほら、わからなくなってきたでしょう。


愛だよ、それ。ちゃんと愛だよ。愛してるよ!!!





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?