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年末読書 その2 宗教と金

『宗教にはなぜ金(カネ)が集まるのか』。宗教学者島田裕巳著。国民の関心事に著名宗教学者がどう論じているかを分析してみる。

なぜ宗教組織にカネが集まるのか。人は日々の行動にいささか後ろめたいところを持っており、宗教者はそこに付け入る。死後の魂の行く先は「地獄か天国のいずれか」と説かれると、「そりゃ、天国がよい」となる。天国行きのチケットを得るには贖罪を重ねることであると理解させ、その方法の一つに寄付があると説教する。(宗派の違いはその説得に係る論理展開の違いにほかならない感じがする。)
寄付寄進には基本的に対価は不要であるから、経費が少なく高収益である。寄進には大口もある。民主主義未発達の社会では、政治権力者の気分で契約の無効化(いわゆる徳政令)とか農地の国家収納などのリスクがある。その場合にお目こぼしを受けるには有力者の後ろ盾が必要。その方法の一つとして国家庇護対象の宗教組織への名義上の財産寄進があった。
他の宗教学者も同意見かどうかはまだ勉強していないが、ここまでは島田説に納得。(他にも一神教における利子禁止の教義をかいくぐる理論研究のために経済学が発達したという説明が続くが、いささか半信半疑なので省略)。

さて宗教団体にカネが集まる構図が分かったところで、それを今後も放置してよいのかという問題が生じる。本では宗教団体への非課税は、おおむねどの社会でも昔から一般的であったとするのだが、今後はどうあるべきなのか。その場合にわが日本は憲法が徹頭徹尾主張する国民主権国家であること。つまり政府が理不尽に国民の生命財産を奪い取ったり、総理や与党の気まぐれで私有財産を召し上げたりしない。また倫理的に正しい言動が理由で監獄送りになることもない。そうすると贖罪や財産保持のために、宗教団体の分不相応に寄付や寄進をする必要はないことになる。
そしてそのことは宗教団体が寄付金や寄進財産を運用する必要もないことになる。そのことから得られる結論は「宗教活動だからいっさい非課税」との法制度が不要であるばかりか、いたずらにインチキ宗教がはびこる原因になりかねないから、この際、宗教非課税をいっきょに全面撤廃するのが常識的ということになるのではないか。
書では「明治神宮のように敷地が大きい宗教団体は窮地に陥る」(から非課税が妥当)のような書きぶりになっている。しかしそこは工夫次第だろう。現在の固定資産税でも、農業専用地や庶民の住宅用地では固定資産税は大幅に減額される。明治神宮の森のように国民公園の役割も果たしている神社用地はゼロ近くに減額すればよい。ポイントは宗教用地だから税務署などの官憲の介入を一切排除という旧習を排することであり、これは政治から宗教性を除くべきとする憲法の考えにも合致するはずだ。

ところで怖いのは、世界に数ある祭政一致を掲げる国の存在だ。イランなどが典型で、国名に宗教名が付いている。その宗教が穏健ならば、関わり合いを少なくすることで難を避けられるが、イスラム教などの特定宗教はその教義が日本と根本的に合わないことを頭に入れておかないといけない。
書では詳しく触れていないが、イスラム教に詳しい他の研究者の本では、イスラム教が敵とし、攻撃すべき(殺害を含む)主対象が、①多神教信仰者と②民主主義信奉者であることだ。わが日本人は、神社神道が身についている点で、また憲法で世界に誇れる民主主義国を誓っている点で、最大の攻撃対象になりかねない。今大量に入国している中東のクルド人はイスラム教徒であるし、アジアで入国者が多いインドネシア人の9割割方はイスラム教徒である。
歴史的にはイエズス会によるカトリック信者の増加がわが国の基盤を危うくしかかった。スペインやポルトガルが現地人のカトリックへの改宗を手段として占領政策を進めた。フィリピンがそうだし、台湾も一時占拠されていた。日本でも関白豊臣秀吉のキリシタン禁令が出る前は、長崎はイエズス会に寄進されて治外法権状態にあったし、そこを経由して日本人男女が多数南東アジアに奴隷として売られていた。キリシタン禁令は、今でいえば北朝鮮拉致事件を防止あるいは奪還するための方策だったのだ。

ところでイスラム教と言えば戒律の厳格さだ。よく知られているようにイスラム教徒が過去の悪業の贖罪を受ける最上の方法はジハードであり、その攻撃対象のとして価値が高いのが先の①と②である。これまで日本人が攻撃が即なかったのは一重に接触が薄かったから。日本国内にジハード実行を躊躇しないイスラム教徒が増えたらどうなるのか。イスラム教徒の移住者が多くなったヨーロッパで頻繁に起きている爆破などの事件(被害者にとってはテロにほかならないが、実行者にとってはジハードであり、天国行きのチケットの最速入手方策)の伝播が怖い。
イスラム教徒との共生として日本人がイスラム的行動に同調すべきとの運動がある。その一つが公立学校での”ハラール給食”だ。イスラム教徒は豚肉を食べてはならない。イスラム教徒の生徒に人権に配慮して、その生徒に特別手間暇をかけて牛肉で調理するとか、いっそのこと日本人も含めて全生徒が豚肉を食べないようにすべきと対応がエスカレートしていく。
なぜ多数者が少数者に合わせなければならないのか。それをもって多文化共生とする向きがあるようだが、それって正しいのか。少し詳しい人によると、豚肉を食べないのはイスラム教発祥地のアラビア半島にはブタがいなかったからに過ぎない。普段食べ慣れないモノを食べてお腹を壊してはいけないというのが真の理由らしい。他所の井戸水を飲むなというのと同じ部類で、それなりの科学性はあるが、宗教的意味合いは実はないという。ならば日本では豚肉が普通なのだから、それを食べればと勧めるのが共生なのではないか。それで食中毒を起こす特異体質の子どもに限って対策を取ればよいというのが、正しい対応であろう。
 
関連してイスラム教では土葬は禁忌であるから、日本内に行政責任で土葬用墓地を作れとの主張があり、それに応じるのが政治の使命と主張する政治家(宮城県知事)がいる。教義的に言えばキリスト教でも本来火葬は禁忌。バチカンは火葬者は地獄に落ちるぞと脅していたが、今は移転して火葬受入れ宣言を出している。現実的、科学的、経済的見地から火葬が世の傾向であることを理解したからだ。イスラム教徒で火葬は本当にゼロなのか、受入れ余地は本当にないのか。知事は職員にしっかり調査させたのか。そもそも外国人の入国条件は受入れ国(日本)が定めるものであり、土葬にあくまでこだわる者には在留許可を出さないのは見識だろう。

思い出したが、ある友人が「高級クラブで飲めるのは宗教家の兄弟といっしょの時だけだ」と言っていた。みんながそうだとは言わないが、女性遊びをしたい者が宗教家になるのはいかがなものか。こんなことを言うと職業選択の自由への挑戦だと騒ぎになるだろうか。


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