祇園祭の思い出
さっき、散歩ついでに街に出向いたら、いつもは静かな住宅街が何やら賑わしかった。
あ、そうだ。祇園祭だ。
狭い通りに鉾の基礎が建てられているまさにその途中で、その様子をカメラにおさめようとする人、じっと遠くから、そして近くから見守る人がみんな鉾を見ていた。
イヤホンを外して、周りの音に耳を傾けていると、「今年は出来てよかったねえ」「ほんとやねえ」なんて会話も聞こえてきた。イヤホン外して良かった。
今年も去年に続き山鉾の巡行は実施されないし、老いも若きも大好きな食べ物などの屋台も出ない。
しかし、去年と違って鉾を立てることはできる。
古くからこの土地で暮らしている人にとって、いかほどに嬉しいことなのだろうか。
少なくとも、市民歴二年の私ですら、とても嬉しい気持ちになった。
汗を垂らしながら蒸し暑い京都を歩き、ふと思った。
親戚筋の半分が京都、そして高校・大学と京都に通い、今は京都に住んでいる私には、思い起こせば祇園祭に関して色んな思い出がある。
覚えている中で、初めて祇園祭に行ったのは十歳の頃。小学四年生のとき。京都に住んでいた親戚のおじちゃんとおばちゃんが地元の駅まで迎えにきてくれて、私と弟、叔父と叔母の四人でお祭りに行った。
私も弟も両親以外の人とお祭りに行くのも、こんなに大きなお祭りに来るのも初めてで、「なんでも好きなもん買ったる」と言われたのも初めてで、二十年前のことなのに目をキラッキラに輝かせたのを覚えている。(実の両親ではそうも行かなくて、祭りの終盤は駄々を捏ね散らかして、ブーくれふてくされながらりんご飴を齧ってた覚えしかなかった)
ただ、「なんでも好きなもん」と言われても、子どもながらに気をつかってしまって、金魚すくいとラベンダー匂いのする携帯ストラップ(ゲームボーイにつけたかったのだ)。それとあと、どんぐり飴しかねだれなかった。冷やし飴の味を知った。絶対にはぐれないように、と、姉ゆえに弟の手をしっかり握った。祭りの後、人で溢れかえる改札に両親が迎えに来てくれた。叔母が買ってくれた、一夜限りにキラキラ光るブレスレットがうれしくて何度も眺めた。金魚は小指の半分ほどの大きさだったものが五匹。「きんちゃんズ」と名付けたその子らを大切に育てたらその後六年ほど生き、金魚の域を超えているのではと思うくらい、とても大きくなった。
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次に記憶にあるのは、初めてできた彼氏と一緒に祇園祭に行ったこと。
高一だったろうか。地元駅で待ち合わせて、電車で京都に。混雑している車内だったけれど、袖の短いTシャツを着てきたから恥ずかしくて吊革が持てなかった。どこに行ったらいいのかも、どういう風な顔をしていいか分からず、なんだか少し気まずかった。悪いことをしている気持ちにすらなった。手を繋いで歩いていると無性に気恥ずかしくて、浴衣の男女が羨ましく思えて、人が多くて賑やかだから会話もままならなくて、門限が来て、帰らないといけなくて。
「来年こそはリベンジするぞ」って思っていたけれど、叶うことなくお別れをしてしまった。
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大学時代は毎年、期間中に一度は祇園祭に足を運んだ。恋人と、高校時代の友達と、大学で出来た友達と……途中で雨に降られてずぶ濡れになった覚えがつきまとっているのだけれども、近くのビルに雨宿りしに逃げ込んで、バイト代を費やして、たません、かき氷、肉巻きおにぎり、クレープ、牛串、からあげ、前田のベビーカステラ、胡瓜の一本漬けを買って、おいしくて、たのしくて。
社会人になってからは関西を離れてしまったので、祇園祭には行けなかった。仕事では浴衣や水着を売っていた関係でとても忙しかったので帰省も叶わず、SNSで友達が祇園祭に行っている様子を見て、羨ましく思っていたっけか。楽しかった思い出を反芻してばかりの夏だった。
でも、浴衣を売る仕事は好きだった。お祭りが大好きだからこそ、お祭りに行く人がどんな気持ちで浴衣を選ぶか、どれだけお祭りの日を楽しみにしているかが手にとるようにわかった。誰かの思い出を作るためにお客さまの気持ちに寄り添って、一生懸命に接客をしたことは私の中で何にも変え難い一生ものの幸せな経験だ。
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最後に行った祇園祭は、二年前。
結婚が決まり、今まで行ったことのないようなおしゃれな町家フレンチ両家顔合わせをしたあと、祇園祭真っ最中の市街を歩いた。
なごやかに終えた宴、祝いのシャンパンの余韻と緊張から解放されたことですっかり弛緩した私は、人混みに揉まれ、コンコンチキと鳴る街に翻弄され、すっかりうっとりうっかり酔ってしまった。だけど、酔いが覚めるとすぐに寂しい気持ちにもなった。あれだけ望んでいた結婚だったのにもかかわらず、いよいよ実家を出ることに寂しくなった。自覚が降ってわいた。あんなに大きかった父の背中が、夫の横に並ぶと小さくしぼんで見えた。祇園祭のある慣れ親しんだ街に、これからいよいよ住むんだ。心細くなった。末永くって、どのくらいだろう。本当に末永いのかな。そのうち苦しむんだろうか。あと何度、家族と会えるだろう。どのくらいこの人と暮らせるのだろう。
去年は祇園祭がなかったから、余計に不安が色濃くなった気がした。永遠をどんなに誓っても、共に何夜過ごしても、不安が降り注ぐ夜があるのだから不思議なものだ。
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ざわめく街、うれしそうに笑う知らない人、汗伝う背中、お祭りが思い出させてくれた、お祭りにまつわるあれこれ。いろいろあるけれど、今年もこの季節を迎えられたことを去年よりもずっとずっと嬉しく思えた。嬉しく思えたことも、嬉しかった。
叔母はもうこの世にいない。元カレはどこで何してるか知りたくもないほど過去で、あの時あんなに仲の良かった友達も、何人も疎遠。だけど今も仲がいい友達もいて、夫がいて、家族もいて、私もここにいる。
春夏秋冬、季節は巡り、暑くなり、寒くなり、乾燥し、湿気て、肌をカサカサにしたり、つま先を冷やしたりする。
多分、「お祭り」はそれらのサイクルの中のひとつの「拍」のようなものなのではないかな。今年は祇園祭が見れてよかった。
30年前の今日、両親に抱っこされた私。