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『学習する社会』#7 2.知ること 2.1 知ることの原点 2.1(1)暗黙知について

2.知ること

次男が手を使い始めた頃、ものを持つのに左手をよく使うようであった。左利き用の道具も多くなった昨今、無理に右利きに矯正することもないとは思ったが、右手で書いた字の方が綺麗だろうと右手でペンを持つように矯正した。箸は左手で、ペンは右手で持っていたので、次男はとっさに左右の判断をできるようになるのにずいぶんと時間がかかった。先日、確認してみたところ、大人になった今でもとっさに戸惑うことがまだあるということであった。

2.1 知ることの原点

大抵の人は「右手を上げて」と言われて戸惑(とまど)うことはない。しかし、右を辞書(広辞苑第六版)で調べると「南を向いた時、西に当たる方」とあり、南については「日の出る方に向かって右の方」、西については「日の入る方」とある。北については「日の出る方に向かって左の方」、東については「日の出る方」とあり、左については「南を向いた時、東に当たる方」とある。東【日の出る方】と西【日の入る方】をどのように知っているかを別としても、南北と左右は同語反復(同義反復、トートロジー)でしか定義できない。それでも、我々はは南北を知っており、左右を知っており、日常生活で困ることはない。先ずは、社会において展開する多様な学習において変化の対象となる「知」の原点ついて考察しよう。

2.1(1)暗黙知について

方角や方向に限らず、日常生活では身の回りにあるものや身の回りで起きることが何であるかを私たちは大抵知っているし、自分が何かをする時にそれをどのようにすればよいかを私たちは大抵は知っている。誰もが、特別に歩き方を練習したわけではないけれど、いつの間にか歩き方を知っている。我々は日常において、特に意識することもなく、当たり前に色々なことを知っている。知っているという状態になっている。

当たり前に知っているという「知」をポラニー(M. Polanyi)は暗黙知Tacit knowledge)と呼び、この暗黙知について、「我々は語ることができるよりも多くのことを知ることができる(ポラニー(1966)、訳書p.15)」と述べている。そこで展開された暗黙知の議論は語ることのできない知識そのものの議論というよりは、それを獲得する方法、知ることについての議論、学びの議論であった。なお、ポラニー(1966)の訳書には、佐藤敬三訳(1980)『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店と高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』筑摩書房があるが、新訳の方がややわかりやすくなっている。

暗黙知の例

ポラニーは暗黙知の構成要素として二つの項目をあげる。一つは近接項であり、もう一つは遠隔項である。我々はある人の顔を知っていて、他の顔と区別して認知できるが、その顔をどのようにして認知しているのかを語ることはできない。この場合、ある人の顔という全体が遠隔項であり、それを形成している目、鼻、口、頬、等々の諸細目が近接項である。遠隔項である顔という全体は目や鼻、口などの近接項の関係とも言える。

さらに、心理学実験の例で近接項と遠隔項の関係が吟味される。実験者は被験者に対して日常的には意味のない無意味つづりを提示する。ある無意味つづりがショックつづりであり、ショックつづりの後には被験者に電気ショックが与えられる。被験者は事前にショックつづりを教えられていないので、最初は電気ショックを予想できないが、しだいに予想できるようになる。しかし、どのようなつづりで電気ショックを予想するのかを被験者は語ることができなかった。近接項はつづりや電気ショックといった時系列に生起する事象であり、遠隔項はそれらの関係(因果関係)である。

暗黙知の四側面

ポラニーは、顔の認知の例に見られる全体と部分の関係、ショックつづりの例に見られる因果関係と出来事の関係の両方を遠隔項と近接項の関係と見ることで、多様に思われる知の姿を暗黙知という概念に統合した。その上で、遠隔項と近接項の関係から暗黙知に関する次の四つの側面が提示している。

機能的側面遠隔項へと注目するために近接項から注目する
遠隔項へと注目するためには近接項を知っていなければならない。遠隔項としての全体である顔(目鼻口等の諸細目の関係)に注目するためには、近接項としての諸細目である目や鼻などを個別に知っていなければならない。遠隔項に相当する「綴りと電気ショックの有無」という因果関係に注目するためには、近接項に相当する綴りそれぞれが無意味綴り(電気ショック無し)か有意味綴り(電気ショックあり)かを知っていなければならないし、電気ショックを知っていなければならない。

現象的側面遠隔項の中に近接項を感知している
近接項を知るためには遠隔項を知らなければならない。近接項である目や鼻などの顔の諸部分を遠隔項である顔との関連で感知している。遠隔項である電気ショックを予感させる因果関係との関連で近接項であるつづりを感知している。

意味論的側面遠隔項が近接項の意味である
全体が部分の、因果関係が出来事の意味をなしている。つづりや電気ショックの意味は「つづり提示⇒電気ショック」という因果関係である。顔の識別において、ある人の顔はその顔の目や鼻やあるいは口の意味となる。空間的に分離されている部分や時間的に分断している出来事という近接項の意味が近接項から離れて遠隔項へと遠ざかって定位される。

存在論的側面「暗黙知が意味を伴った関係を二項目間にうちたてる」
機能的側面と現象的側面は独立していない。諸細目と全体相の認知は同時である。我々は諸細目を認知してそこから全体相を認知するのでもなく、全体相を認知した後にその諸細目を知るわけでもない。同様に、原因・結果(となる時系列事象)と因果関係の認知は同時である。正確には結果事象の認知と因果関係の認知は同時であり、同時に原因事象も認知される。原因事象と結果事象を個別に認知し、そこから因果関係を認知するのではないし、因果関係を認知した後に原因となった事象を原因として認知し、結果となった事象をを結果として認知するのでもない。部分と全体、あるいは原因・結果となる時系列事象と因果関係が同時に包括的な存在として認知される

ポラニーの暗黙知の議論における中核的な主張の一つは、存在論的側面として述べられている近接項と遠隔項の包括性の認知であり、もう一つは、意味論的側面として述べられているところの、近接項から遠隔項へという知ることの拡大である。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)

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