美しいものに目がない美しくない女
美しくないと美しいものを好きになっちゃいけないのか
物心ついた時には美しくなかったが、物心ついた時には綺麗なお兄さんや宝石のオモチャなんかが好きだった。
近所のスーパーに『セボンスター』というおまけ付きチョコレートが売っていて、時々母親に買ってもらっていた。おまけで付いてくるオモチャのペンダントには、サクランボ大はありそうな大きな色石が付いていた。石の色は箱を開けるまでのお楽しみだ。
今思えば大きさに反して「は?」と思うほど軽くて、シャラシャラ鳴るチェーンの音はいかにも偽物ですと名乗っていたが、当時の私にはうっとりと、自分が長い睫毛のご令嬢にでもなった心持にさせられるものだった。
私が自分を美しくないと知ったのは幼稚園に入ってすぐだった。
年中組から入園した私は女の子たちに仲間外れにされていたのだが、その際、「かわいくないからだめ」「ふとってるこは入れないんだよ」と言われていたからだ。
女衆よ、おまえらは残酷だけど理由を明確にするだけましというか、無垢だ。自分の立ち位置がわかった瞬間だった。
ここでは苦労話をしたいのではない。
これから美しくないと美しいものを好きって言っちゃいけないの?っていう話をする。
頑張れない
物心ついた時には綺麗なお兄さんや宝石のオモチャなんかが好きだったが、綺麗好きではない。部屋は汚いし、自分も汚い。
部屋は服と本と書類で散らかっている。
洗濯を土日にしかしないため、金曜日には着る服がなくなる。土日は出張で洗濯できないことが多いので、いよいよ綺麗な服もパンツもブラジャーもなくなる。とりあえず月曜出勤するためのセット一式を買う。とりあえずで服が増える。また部屋が散らかる。それでも平日に洗濯をしない。頑張れない。
綺麗どころか普通を維持することもできないのに、時々綺麗になりたいアドレナリンで馬鹿になってジムに入会してしまう。
通わなくなるのはまあ構わない。問題は、退会できないことだ。私は今、通っていないジム1と通っていないジム2と通っていないホットヨガスタジオに月会費を支払わせていただいている。馬鹿の社会貢献だ。
運動しないし金が貯まらないから余計に綺麗から遠ざかる。
質の悪い食べ物を食べて、質の悪い部屋に住み、安い服を着て、綺麗なものを観ることを楽しみに生きている。
虚しくならないかって? なる時もある。でもこの楽しみがないと、私にとっては働く意味がないのだ。
では、こんな“頑張れない”私でも、綺麗なものを好きと言っていいのかって話である。
私が田辺智加を好きな理由
どうしても考えてしまうのだ。好きでいることの、相応しくなさについて。
私が観る綺麗なものってやつは現在、芸能人だったり映画だったりミュージカルだったり舞台だったりする。そのどれもが、私が居間でうずくまってるだけの膨大な時間を、鍛錬に注ぎ込んで磨きあげられたものだ。
そういうものを観るたびに、うっとり癒されたり、たかぶったりするのと同時に、どうしても「ごめんなさい」って思ってしまう。
趣味の時間自体は本当に楽しいのに、みんなが素晴らしい分、怠け者な自分がくっきりする。苦しさの方が盛り返してきて、何も楽しめなくなる時がある。
お笑いカルテット・ぼる塾の田辺智加さんには、好きな人がたくさんいる。有名なのはKAT-TUNの亀梨和也さんで、人生の半分以上を彼の大ファンとして生きているそうだ。他にもアイドルやアニメや漫画やディズニーなど、とても多趣味。
そんな田辺さんにも100%の力で推せない時があるらしい。誤解のないよう慎重に要約すると、推しのことは頭のてっぺんからつま先までいつも全力で大好き。全力だからこそ、全てを注ぎ込んでパワーが無くなってしまう時期がある。でも自分の生活も大事。と。
亀梨さんもまた、「ファンが離れてしまうことは仕方ない。でも、ファンでいてくれた時間を決して後悔させない」ということを語ったことがあるそうで、お二人の推す側と推される側の信頼関係に感動してしまった。
後悔させないということは、ファンが誇れる自分であろうとすることだし、田辺さんもまた、亀梨さんが誇れる自分でありたいと語っている。なんて尊い関係だろう。
ところでそんな私の推しのひとりは田辺さん(ぼる塾)だ。田辺さんの可愛いお部屋や可愛い服、素敵なライフスタイルを観るたび自分の家の汚さや服の凡庸さや金のなさに心の中が灰がかることがある。
でも私の推しはこんな私を許容してくれるだろう。ずっと腐りっぱなしでなければ。だって辛くなるのは、「自分は綺麗なあの人が誇れるファンになれてるだろうか」という問いからくる棘だからだ。
いつだってファンは輝かしい推しと自分を比較して葛藤する生き物だ。きっとこの棘は抜けないので、あきらめましょう。