真面目に写真の話
撮影のため河川敷へ。河川敷が好きすぎるため、ロケ地を自由に決めていいときはかなりの確率で選んでいる。やれることの幅が広いのと、でかい空とでかい川は撮ってておもしろいからね。せっかくなら楽しみたいし、楽しめる空気がないといい写真は撮れないよ。
デカすぎる中判カメラをカバンに突っ込んでウロチョロしているわけだが、さすがに重さで肩が死にかけてきたので登山用にも使える機能性花丸なリュックを新調した。これが本当にいい! 見た目もなんかかっこいい気がするし、背負ってて全然疲れない。なによりリュックに背板が入っているようで、何を突っ込んでも形が崩れないのがありがたい。へにょってなるのが嫌だから。さっそく2025年のベストバイが決まってしまったかもな。
そのあとはプリズムラボへ。店主の西村さんはいつ訪れても優しく話してくれるので嬉しい。真面目に写真について話す時間ってよく考えたらこのときくらいしかないので、自然と「この時間を大切にしなきゃ」と前のめりに伺ってしまう。負担をおかけしてないかが心配だ。
いろいろ話していただいたが、言葉にならないことを伝えられる手段としての写真、という考え方がすごく印象に残った。たとえばタイトルや展示名も外したとして、ただそこに“ある”写真だけを見たとしても何かを受け取れるわけで、むしろそれが「見せようとすること」から抜け出した、自分の本質に近しい何かなのでは......など、写真を撮るうえでの手掛かりになる話だった。
どうしても「よく見られたい」という思いは拭えなくって、それ自体は醜いものではないし否定しなくてもいいと思うんだけど、できあがった写真を見たときに「あ、良く見られようとしてるな」って自分が自分の意図に気づいてしまったとき、急に写真の輝きが褪せて見えてしまうことはあったりする。
これって本当に苦しくて、撮る気力を失いかけてしまうこともあるんだよな。ひどいと撮影中にそんなメタ的な視点を持ってしまうこともあって、汗をダラダラかいて苦しくなってしまう。写真を撮り始めたころ、フィルムに手を出し始めたころ、そういった純粋な「夢中さ」が軸にあったときの写真は今だからこそ眩しく見えたりする。
でも今の自分の写真だからこそ好きと言ってくれる人もいるわけで(これは本当にありがたいこと)、いろいろなことを高望みしているだけなんだろう。昔と今で何もかも変わったわけでは全然なくて、入れ替わった細胞もほんの一部でしかないんだから、色眼鏡の色がどんどん濃くなっているだけだ。外したいよこのサングラス。
自分の写真をある意味「許せてない」のは、軸がフニャフニャしているからなのかもしれない。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、浮いたり沈んだり、そうなっている自分と、一見してそうではないように見える写真との比較に落ち込んでいるような、そんな気がする。技術とかそういう話ではなく、まずは自分なりの写真哲学をしっかり持つこと、そこからまた一歩を踏み出すべきなのかな。果てしないけど、だから楽しいんだよなあ!