【Vtuber】今あえて負の側面に触れてみる

ホロライブをはじめとして、これまでのVtuber文化の定着とこれからの一般化という過程で、滲出する負の側面など、それらを整理してみる。

各章が独立したり、関連したりしながら進めていくが、基本的に独立しているものとして、雑記感覚でご高覧頂ければ。

ホロライブメインで進める。
批判の意図はあまりないが、ある種断定的な事象として取り扱っていく。

敬称略。



アンチスレ

おそらく認識はされているけども、無視されるべき存在。
一言でいうなら掃き溜め、忌むべき場所である。

生産性は低く、時間と脳のストレージを消費する以外、特筆すべきことはなにもない場所。

9割9分無意味な罵詈雑言しかないのだが、ごくまれに1分の割合で金言だったり、生産性のある議論が行われたりする。

おそらく、それはスレタイ(スレッドタイトル)だったりがバイアスを定めている面があるためだろう。

このような場所だが、ホロライブのタレントを観測する中で、何名かの割合で、アンチスレを意識した言動を行っている場合がある。
具体的な名前は伏せるが、おそらく、アンチスレを見ていると思われる。

これから運営が渇望している一般化を進める中で、アンチスレも並行して肥大化していくことだろう。

アンチスレとはファンコミュニティの負の側面と位置付けることができ、ガス抜き的な役割を担っている節もある。
いわば表と裏の関係である。

今後、歴史を刻む中で確かにあった歴史として存在し続けるだろう。
生産性はないが、不要でもない存在。
それがアンチスレ。


ホロライブは過去を清算したか

前回の投稿で、2018年~2019年ごろの約2年間は筆者自身ホロライブに対してあまり熱心ではなかったと記述した。

現在もどうか、と問われれば否定しずらい面はある。

ただ現在、組織、ブランドとして好ましいとは感じている。

熱心ではなかった当時、vtuber業界において、にじさんじの方が配信、タレントのポテンシャルなどにおいて、右に出るものはいなかったのは確かである。

筆者自身もご多分に漏れず、当時それに迎合した一人である。

ただ、一つ特筆したいのは、当時ホロライブを見ない、と選択した理由は明確に存在していた。

なぜなら当時、ホロライブの一部タレントの言動が道徳・倫理的に不快だったから。

具体的なタレント名は伏せるが、差別的な発言だったり、リスナー軽視の言動であったり、関係が使い物にならなくなったら簡単に切り捨てたり、他人のキャラクターを模倣したり、正規の手続きを踏まなかったり、数字のために何でもする、といった姿勢があまりにも受け入れられなかった。

それらがあって今がある。
それも事実だと思う。
否定はしない。

ただ、そのタレントたちはそれを清算したのだろうか。
答えは否だ。

海千山千のVtuber業界、当時アイドル組などが健在で、勢力図が日々刻刻と塗り替えられる群雄割拠の時代であった。

ホロライブはいいとこ2,3番手程度の勢力でしかなく、上昇志向がかなり強かった。

まさに生き馬の目を抜く、という言葉が最も似合う。
クレバーさ、という点では当時のホロライブは、本当に知恵と工夫に富んでいた。

Vtuberをビジネスという視点で見たとき、その手段はまったくもって正しい。エンタメなどと上手く絡ませながら徐々に上昇気流に乗る彼女たちを観測していた。

ただ、人間的には正しくなかった。

繰り返しになるが、その過去があって、華々しい現在がある。
という論理は正しい。

ただ、その時を知っていた人間からすると、常に過去の言動が参照されてしまう。
あまりにも現在との齟齬があるといってもいいかもしれない。

華々しい活躍でカタルシスを演出しながら、「あの時は大変だった」とまるでグチャグチャのスポンジをゴテゴテしたホイップクリームで塗りたくって誤魔化すかのように。

それに違和感を感じるのは自分だけだろうか。

当時のタレントは皆、ホロライブというブランド内はおろか、Vtuber業界を見渡しても、指折りの大御所、権威者になっている。

成功すればすべてが肯定される、というのは現実であるが、いつか彼女たちが過去と向き合わされる時が来るのだろうか。


箱推しが年々難しくなる話

以前、上記引用の投稿をしたとき、触れた部分でもあるのだが、にじさんじが陥ってしまった不可逆的な事象として、箱内のタレントが供給過多になってしまい、箱推しが消失する、ということを記述した。

加えて、単推し(または少人数推し)の場合、推しが推し以外の人間と絡まされている状況は、視聴者から見て非常にリスキーなものである。とも記述した。

大規模箱イベント(GTA、RUST、マイクラ系)などで顕著であるが、基本的に自由にロールプレイする上に、コミュニケーションが突発的に発生するという、展開の読めなさ、全体への影響、想像以上の化学反応など、箱イベントでしか味わえないエンタメというものは、明確に存在する。

ただ、人間関係という視点で見たとき、イベント参加者に出来たら見たくないタレントが参加してしまう、という可能性もある。

そしてそのタレントが自分の推しに絡んでしまう。という可能性もある。

一視聴者の身勝手な理論を振りかざすと、その視聴には苦痛を伴う。

視聴者側の対応としては以下の2通りである。
 1.苦痛に耐えながら箱イベントに参加する推しを眺める(ゲーム内コミュニティが一緒など、長期的に関わる場合はさらに悲劇的だ)。
 2.諦めてチャンネルを変える(またはもう見ない)。

言葉を選ばずに言うと、苦手なタレントが推しと関わってしまうと、関わられた推しも実害を被る可能性がある、という話である。

あくまで一例として箱イベを挙げたが、タイマンコラボや凸待ちなど、何かの拍子に関わることが可能であるため、視聴者としては常にスリリングな状況であることは変わりない。

そして、苦手なタレントが一人でも生まれてしまうと、その時点で箱推しは難しくなる。

そして、この現象は今後も継続して新人が増えたりすることで、リスクは高まっていく。

去年まで箱推し(DD)だったが、今年はもう無理でした。
という可能性は常にある。

最も悲しいのは視聴者本人がそれを自覚してしまった瞬間だ。

まぁ、筆者自身のことだが。

つまるところ、ホロライブも着実ににじさんじ化している。


タレント裏の話

退所後の話

主に卒業、契約解除、配信活動の停止(以下まとめて退所)が増えてきた2022年ごろから顕著であるが、他のタレントが退所するタレントについて、言及する際「裏で会えた」「裏でこうだった」という発言をすることがある。

おそらくこれは、「その後」を知りたいファンや動揺しているファンを鎮めるための言及であり、言及した本人はおそらく、正の効果を期待をしていると思われる。

だが筆者自身は「だから?」「言ってどうなる(意味あるのか)」という感想が出てきてしまう。

なぜなら、視聴者からすれば、退所とは総じて配信をしなくなることであり、言い換えれば、ファンとの繋がりを未来永劫断絶するということと同義である。

転生先に視聴しに行くだとかそのような話ではなく、ホロライブと離縁し、出奔することに変わりはない。

ホロライブに所属していたタレントとして応援していただけであって、中の人というものとは切り分けて応援しているファンもいる。

退所したタレント(中の人同士)と食事した、遊んだ、などという話が雑談で出てきたとして、「元気そうでよかった」という感想以外に想像以上に何も感じることは無い。

特に退所したタレントが推しだったわけではないので、無味である、という感想以外出てこないが、応援していたファンたちはどのように感じているのだろうか。

全員が全員喜んでいるのだろうか。
いや、有意義に思っているのだろうか。

某タレントが卒業する際、他のタレントが「皆は悲しいだろうけど、私たちは裏で会えるんだよね」と言及したことがあった。

彼女はすぐに「皆には申し訳ないけど」と付け加えていた。


ヘイトコントロール

コメント欄が荒れやすいタレントというものは一定数存在する。

モデレーターの尽力にも限界がある。

個人的にはそのようなタレントは今後も一定数必要であると考えている。

これまでの多くのタレントが辛酸をなめてきた事例があるため、基本的に必要な能力としてヘイトコントロールという考え方がある。

ヘイトを生むような言動をしたら、リカバリーできるような言動を心がけて、自身への評価を上げるよう努める、という考え方であるが、これにはファン心理への高度な理解が必要である。

言い換えるならメタ認知能力が必要である。

エンタメ重視、インパクト重視、キャラクター重視は短期的に見れば、切り抜きなどで露出の機会を増やすことにつながるが、長期的に見れば伸び悩みやコアファン以外のライト層にとって敬遠されやすい存在になることがままある。

先述したように、苦手なタレントに区分されて、腫物扱いになる可能性も大いにあるだろう。

その手段として、ほかのタレントが「裏では礼儀正しくて~」や「裏で長文の謝罪された笑」といった言及によってヘイトコントロールしている事例が散見される。

全部が全部そうではないだろうが、ヘイトコントロールを少なからず意識している。

ただ、他力本願でのヘイトコントロールは限界もあるうえに、手段として稚拙だ。結局のところ、これは管理する本人が独力で行わなければ本人の成長につながらない。

これまで失言などで辛酸をなめたタレントたちは、総じてヘイトコントロールがうまい。
そしてそれはチャンネル登録者などの数字に結びついており、配信の実力も頭一つ抜けてレベルが高いことがある。

ヘイトコントロールを極めれば大きな成長が見込めるだろう。


配信と人間の話

Vtuberというエンタメカテゴリを生まれて初めて知った時、筆者自身は才能はあるのに容貌でふるい落とされた人が行き着いた芸能スタイルと感じた。

そして、既存のルッキズムやコネクション、資本が大部分を占める、マッチポンプ的なオールドメディアのショービジネスへの強烈な対立定義だな、とも感じ、ワクワクした。

今でもこの考え自体は変わっていないが、数年経ってみてVtuberへの考え方が新しく加わりつつある。

それはつまるところ人間を楽しむということだ。

容貌に自信がないからガワ(アニメルックのキャラクターアバター)を使用しているという考え方も勿論あるだろう。

しかしながら、ガワを被ることによって、より人間性が先鋭化し、鋭敏に視聴者に届けられる、ということを感じるようになった。

人間性をよりダイレクトに届けるためのガワ、と言い換えられる。

ゲームを楽しむ姿、雑談する姿、歌う姿、他者と関わる姿。

ラジオ的な楽しみ方だが、上辺の言葉だけでなく、息を飲む様子を聴くように、よりタレントの感情や人間性に触れられることが本質的な楽しみ方なのかもしれない。

少なくとも今はそう思う。


推し活の求める先

幻想的推し活

筆者自身の記憶では、推し活という言葉が使われ始めたのは2000年代、AKBの活躍が関係していると記憶している。

多様性が標準装備された現代において、推し活はそれぞれ推しているファンごとに違った形をしている。

かつてのAKBのような大量消費したファンこそが正当なファンである、という狂った徴税的経済活動は忌むべきものであるため、それを知っているとよい時代、穏やかなカテゴリとも思う。(現状そのようなファンも一定数存在するが)

先述した人間性を楽しむ、という話に関連するが。Vtuberとは仮面舞踏会的な側面があると考えている。

なぜなら、タレントはガワを被り、基本的に氏素性を告白することは無い。
視聴者自身も基本的にアカウントと文字の羅列であり、基本的にお互いに素性を知らない(やや公然の秘密的ではあるが)ことを前提に運営されているからだ。

これはある意味対等であり、平和的な状態である。

例えば、既存の芸能活動は基本的に顔出しが当然であり、基本であった。
それは即ち、不特定多数の人間に鑑賞(干渉)されていることと同義であった。それも一方的に。

生身むき出しの自分自身を商品にすることが芸能活動の基礎基本であったが、Vtuberの登場によって、顔出しをしない芸能活動が急速に市民権を得たことは芸能史上特筆に値すべきだろう。(Adoも含む)

しかしながら、当然ながら、ガワは本人ではないため、ファンはそのアバターを信奉するしかない。
この点は齟齬がある、といっても差し支えないだろう。

ガワとキャラクターが混然一体となって、それを応援する。それがVtuberというエンタメだ。

上記の意見は真っ当な正論ではあるが、そのガワを信奉する、という行為はどのように定義されるのだろうか。

その点はアニメキャラクターのグッズを収集する感覚なのかもしれないし、あえてそこは言語化しない、という神秘主義的な側面を内包しながらVtuber文化は進んでいる。

現状、ガワと人間性が互いにノイズになるというリスクを抱えながら、長期間活動しているタレントは一体となって、第三の人格(キャラクター)を生成することに成功しているように筆者は感じている。

そういう点ではキズナアイの悲願がある種果たされたとみてもよいだろうか。


推し活は愛情の代替行為

結論はタイトルに記載しているが、Vtuberにおける推し活は応援する、共感するといった感情的、情緒的な側面が強いように筆者は考えている。

そうでなければ端から見れば、ただのガワでしかない、ガワと人間性が一体となって、それに関心を持つということがVtuberにおける推し活の情緒的な導線であるといえるだろう。

経済活動、という視点で見たとき、Vtuber的推し活も既存の推し活と同様に経済活動に完全に組み込まれている。

Vtuberに限らないが、基本的に推し活はリソース(時間的資源、精神的資源、金銭的資源)を割くという消費行為であり、それは即ち愛情の代替行為である。

愛情行為だと誤認させられる場合もあると言い換えてもよいだろう。

消費行為と物悲しい言い方をしたが、基本的に「~したい」といったファンの溌溂とした心理が出ることから、推し活は人生の生きがいというある種の救済的な側面があることは全く否定しない。

しかしながら、推し活は人生の生きがいであること推しが存在するから安定しているは全く別物であるため、自身の内的な部分を常に俯瞰してみるようにすべきではあるだろう。

本投稿で最初にアンチスレを取り上げ、ファンコミュニティにおける負の側面であるが不要ではない、といったのは彼らもある意味推し活をしているためである。

罵詈雑言を吐き出すほとんど無意味な場所ではあるが、ホロライブ(またはにじさんじ)という対象に対して、安定を希求していることは疑う余地はないだろう。

他に安定する要因があるなら、アンチスレには来ないのだから。



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