余命数か月
長く生きると、
人として生きることの限界が見えてくる。
言葉や概念を使うという限界。
言葉や概念は単純に云って、記号にすぎない。
記号は有用な道具であるが、指し示す実体はない。
人の意識が生む抽象的な像やイメージから作られた道具。
普遍的な意味はない。
従って、法則や原理とも無縁。
加えて、意識という限界がある。
意識は脳がつくる虚構。
実像ではない。
あくまでマボロシ。
マボロシだけど、充実した生き方はできる。
実感があるためだ。
感覚器官がつくるイメージや感覚。
今、この一瞬を生きる人が感じる実感のこと。
美味しいもの、美しいもの、楽しいことはある。
人の記憶と意識体系がつくる実感。
実感はあるが、実態は虚像。
極論を云えば、
人が生きるうえで、一番重要なことは、
価値や意味ではない。
社会貢献でも人類の繁栄に利することでもない。
善悪や正義や偉大や尊敬にあたいすることでもない。
一番大事なことは、一瞬を味わうこと。
その実感。
長く生きると、
長く生きるという無意味さが良く分かる。
一瞬が充実できる訳ではない。
もし、一瞬が100倍に充実するなら、長生きもいいかもしれないが。
そんなことはない。
一瞬は一瞬でしかない。
プーチンさんは権力のてっぺんで、
自分の偉大さを味わっているかもしれないが、
しかし、実態はただのエンターテイメントにすぎない。
オリンピックの選手と同様な娯楽を提供している。
ただし、与える影響は莫大だが。
若い頃は、人生の意味や価値について思う。
より素晴らしい生き方があるはずだと。
学歴や出世や名誉や実績や富や努力。
人生の終わりには気付く。
それほどの価値はなかったのだと。
墓に表示するほどの意味はないと。
この世に偉大な人も優れた人もいない。
プーチンさんは、偉大な皇帝として
永遠に飾って欲しいと願っているかもしれないが。
それは無理だろう。
たとえ、余命数ケ月と宣告されたとしても、
人は残念に感じる必要はない。
長生きしても、一瞬が長くなるわけではない。
今しか生きられないことは同じなのだ。
功績が永遠に伝えられるというのは、
歴史という作りものがまき散らす幻想にすぎない。