KOHHそして千葉雄喜 あるいは「連帯」の可能性について
2024年も残り僅かだが、今年のヒップホップを千葉雄喜の存在を無視して語ることはできないだろう。
KOHHとしての活動を引退してから約2年の今年2月、本名名義で突如『チーム友達』をリリース。
2010年代シーンのレジェンドの復活にヘッズは沸き上がり、瞬く間に反響を呼んだ。
その後やや勢いは衰えたかのように見せたのも束の間、7月30日にはアメリカの女性ラッパーミーガン・ジー・スタリオンとのコラボ曲『Mamushi』をリリースし、アメリカビルボード36位にランクイン、SNSでも爆発的な流行を見せている。
さらにその活躍は音楽に留まらず、9月21日には千葉雄喜考案・監修の「梅しそおかき」の販売を開始。
戦前からの歴史を誇る老舗文芸誌「文學界」で連載も執筆するなど、我々の想像の斜め上をいくスケールで多岐に渡って活動する男だ。
本稿ではそんな謎に包まれた千葉雄喜という男を、KOHH時代の足取りやリリックなどを読み解きつつ彼がどのような変遷を遂げたのか、
そして千葉雄喜として復活したことの真のねらいの読解に挑戦する。
是非最後までお付き合い願いたい。
ママはヤク中、パパは天国
千葉雄喜(以下、「千葉」)は1990年4月22日、韓国籍の父と日本人の母のもとに生まれた。2021年までの活動名義「KOHH」は、父親の名前である黄 達雄(こう たつお)に由来する。
しかしこの父は千葉が2歳を迎える3ヶ月前に他界してしまい、母は精神的ショックから薬物依存に陥る。
その壮絶な生い立ちはリリックにおいて詳細に語られている。
困窮した団地暮らしのなか、祖父母によって育てられた千葉は、やはり「やんちゃ」な少年時代を過ごす。
彼の代表曲として知られる『貧乏なんて気にしない』は、まさにそうした生い立ちからこそ生まれたパンチラインだろう。
その後、千葉はKOHHとして2013年頃から頭角を表し、2010年代後半の日本語ヒップホップ/トラップブームの最前線をBADHOPなどともに牽引した。
千葉のKOHHとしての活動を大きく分けると2012年~2015年を「前期」、2016~2021年を「後期」と分類することができる。
その足取りを詳しく追っていこう。
「適当でチャラい」からの脱却
前期は「YELLOW T△PE」シリーズのリリースなどで徐々に注目を集め、2014年7月、自身初のアルバムとなる2ndアルバム「MONOCHROME」をリリース。1stアルバム「梔子(くちなし)」は完成していたものの、そちらに先駆けて2ndアルバムを先にリリースするという試みにも注目が集まった。
現時点から振り返れば彼らしい挑戦的な試みに思えるが、本人はインタビューでその意図についてこう述べている。
その言葉通りこの2ndアルバムから、彼の特徴である話し言葉を切り取ったかのような平易な言葉でリリックを綴るスタイルと、彼自身の出自や内面からなる重いテーマが融合し始めた。
一方で「適当でチャラい」イメージは抑えつつも、「動物性」とも評された(*1)そのまっすぐな欲望は、成り上がりへの飽くなき意志となって維持されている。
特に、「やりたいことやるだけ/人生が終わるまで」(『やるだけ』)というパンチラインはその後もKOHHを貫く重要な思想となっていく。
ロックスターとの出会い
その後リリースした3rdアルバム「DIRT」は更に内省的な傾向が強まり、「死」や「生」に関するリリックが増え始める。
これは同時期に聴くようになったというカート・コバーンなど伝説のロックスターの影響を受けてのものと思われるが、若くして亡くなったスターと対照的に、その「生」への意志は驚異的だ。
先程の分類にしたがえばここまでが「前期」と整理できる。
「後期」は2016年にリリースされた前作の続編に位置付けられる「DIRTⅡ」から始まるが、本作ではさらに自己のより深い部分を抉り出したかのようなリリックが増える。
そして、KOHHとしての変化を明確に示唆する楽曲が、アルバム4曲目収録『Business and Art』だ。
「お金の為に生きるなら死ぬ」
これは衝撃的なリリックだ。「遊ぶだけで遊ぶ金稼ぐ/思い通りになれる」(『飛行機』)などに代表されるように、前期KOHHのリリックの柱のひとつは「やりたいことで金を稼ぐ」であった。
「生きてるうちに億万長者になる」とまで宣言していた男に、どんな心境の変化があったのか。
「成り上がり」から「アート」へ
私の読みでは、この作品を機に彼の音楽は「成り上がりの手段」から、「芸術としての手段」に変容し、欲望の対象が横ズレしたと見ている。
どういうことか。
この頃からKOHHは自分が成り上がるごとに生まれる様々なしがらみへの苦悩を吐露するようになる。
彼にとってヒップホップ/ラップは遊びのひとつだ。彼にとっては遊びが仕事に変わり、それでお金を稼げるようになったに過ぎない。
しかし、「売れる」ということは様々な利害関係とタイアップすることを意味する。
色々な人間も寄ってくるだろう。本来自分が目指す方向と経済的な方向がぶつかり合い摩擦を起こすというのはよくある話だ。
その中で、彼は自身の「やりたいこと」とはなにかを繰り返し自問自答することで、
対象を外的な評価に依拠するもの=成り上がりから、内的な自己表現を研鑽するもの=芸術へ横滑りさせていったのだ。
最初の「MONOCHROME」でテーマに掲げた「内面的な」部分をさらに昇華させたともいえる。
「DIRT」と「DIRTⅡ」は確かにその世界観を共有し、作品としては二作にわたるシリーズとなっている。
しかし、KOHHとしての活動総体で見たとき、この2つの作品の間には明確な変化が存在し、その芸術路線、反商業主義的なスタイルは後期KOHHのリリックの軸となっていく。
では彼は前期の最大の特徴であった動物性、言い換えると外的な欲望を捨て去ってしまったのだろうか。
無論そうではない。
「お金無駄使い/貯金なんてできない」(『Born to Die』)というように、彼は変わらずお金のことも歌っている。
その二面性について、彼はインタビューでこのように述べている。
どこまでも感覚派な男だ。
いずれにせよ、そうした二面性や矛盾まで含めて芸術へ昇華する試みが、後期KOHHとしての主な活動となる。
その後KOHHはかねてよりファンであることを公言していた宇多田ヒカルと『忘却』でコラボを実現した。
このリリックにおいては「DIRT」シリーズの死生観がより先鋭化されて引き継がれている。
一方、「やりたいことで金を稼ぐ」というテーマも同じく先鋭化されている。
2016年末に立て続けにリリースした『Mitsuoka』『働かずに食う』ではそのテーマだけを歌い続けた。
「貧乏なんて気にしない」→「お金の為に生きるなら死ぬ」ときて「働かずに食う」だ。
しかし、これも恐らく彼に言わせればその時は「そう思っていた」だけであり、「そういう気分だった」に過ぎないのだろう。
さて、その後彼は国内外でライブツアーを中心に活動。
5thアルバムとなる「Untitled」のリリースは前作から約2年7ヶ月後となる2019年となった。
本作は、「DIRT」シリーズから地続きとなっている内省的・芸術路線の集大成といえるだろう。
リード曲『ひとつ』はそれを象徴する歌いだしから始まる。
「泣いている地球/俺らはその一部」
かつて、彼がここまでメタファー的な言い回しでリリックを書いたことがあっただろうか。
彼の表現は彼の望み通り、「アート」に昇華されたのだ。
一方、その中で以前より垣間見せていた苦悩もより深まる。
そして、私が本作で一番注目したいのは終盤、『Leave Me Alone』→『I'm Gone』そしてラストナンバー『ロープ』と続く3曲である。
『Leave Me Alone(ほっといて)』『I'm Gone(私はもういない)』という曲名からすでに不穏な空気が漂うが、内容もその予感通り何か不吉な別れを予感させるリリックだ。
そしてラストナンバーはそれまでの鬱屈した曲調から一転、KOHHの痛ましいまでのシャウトから始まる。
「ロープ」とはなんだろうか。そしてこの三曲でアルバムを締めくくった真意とはなにか。
それは、「KOHHとしての死」を象徴するものにほかならない。
「アート」としての「ロープ=自死=引退」
本作のリリースから1年後、KOHHは次回作を最後に引退することを表明した。
おそらく、「Untitled」のリリース時には引退は決まっていたと考えていいだろう。
そして引退=死への布石として、この『Leave Me Alone』→『I'm Gone』→『ロープ』の並びがあると私は見ている。
彼の「アート」は「ロープ=自死=引退」によって完成されたのだ。
どういうことだろうか。
彼は『ロープ』において、それまでの二曲とは対照的に、その心境を直情的に書き記している。
「見えないロープ」とはなにか。普通に考えれば彼がこれまで時折垣間見せた業界における様々なしがらみや制約を意味するだろう。
それはひとつの最適解だ。しかし、私はそれだけでは十分ではないと考える。
「見えないロープ」とは、彼が追い求め続けた「アート」そのものなのだ。
先程から述べているように、KOHHの特に前期におけるリリックの最大の特徴は「生活や会話をそのまま切り取ったかのような平易な言い回し」であった。
彼は2014年、世界30ヵ国以上に支部を持つユース向けデジタルメディア、VICEで特集された際にこのように述べていた。
しかしながら、後期において彼が欲望の対象とし続けた「アート」は、突き詰めていくと「適当さ」「平易さ」は薄れ、リリックの抽象化を要請する。
事実、彼のリリックには『忘却』や『ひとつ』からもわかるように、抽象的な表現が増え始める。
『Leave Me Alone』→『I'm Gone』→『ロープ』はその最たる作品であるといえるだろう。
もちろん彼は平易な言い回しを捨て去ってしまったわけではない。「Untitled」にも、『まーしょうがない』など生活を淡々とリリックに載せた楽曲も収録されている。
しかし、彼が本質的にやりたいこととしての「アート」は、彼の「適当さ」を封印する。
それによりKOHHはやりたいことを追求する結果、本来自分が目指していた表現を見失い、「自分の『やりたいこと』に縛られる」というジレンマに陥る。
言い換えれば、アートや表現の限界に直面したのだ。
縛られた彼は、KOHHとしての「死」を選ぶ。
私はあえて断言したい。
リリックにこそ描写はないが、この楽曲はKOHHの「ロープ」による自死そのものだ。
そして、この楽曲と引退表明をもってKOHHの「アート」はその有限性を証明すると共に、完成した。
その後、KOHHは引退前最後のアルバムとなる「worst」をリリース。
こちらの作品には「アート性」を引き継いだとみられる暗喩的なリリックは見受けられなかった為、ここではそのリリックには詳しく触れない。
しかし、ラストナンバーとして収録されている『手紙』は育ての親である祖母(通称「大ママ」)へ宛てた感謝の手紙を朗読したもので、4年後の復帰へ向けた重要な伏線となっているため、全文を引用しておく。
彼はKOHHを殺し、千葉雄喜として生きることを選択した。
それは偶像としてのラップスター(=KOHH)から、交換不可能で固有な存在(=千葉雄喜)への転換にほかならない。
そして、言うまでもないがこの『手紙』の公開はその第一歩である。
彼はKOHHであることによって直面したKOHHとしての有限性=限界を、その偶像を自ら脱ぎ捨てることで打ち破ろうとしようとしたのだ。
では、彼が千葉雄喜として復活したことの意味とはなにか。
次にそれを解明していきたい。
「地元」から「友達」へ、あるいは「家族」から「連帯」へ
KOHHの活動において、もうひとつ触れておかなければならない代表曲がある。
『結局地元 feat.Y'S』である。
このMVやリリックを観て、何か奇妙な既視感を感じた方もいるかもしれない。
そう、この楽曲はテーマもMVの構成も2024年に大流行した『チーム友達』に酷似しているのだ。
この『結局地元』で見せた地元や仲間を誇るスタイルは、その後も彼の代名詞となっていき、また私のように地元に強い帰属意識を持つヘッズにとっては憧れの対象にもなった。
この楽曲は先程の議論での分類でいうところの「前期」の楽曲となる。
では千葉は、『チーム友達』での復活とともに前期のKOHHに回帰したのだろうか。
そうではない。
実は『チーム友達』こそがKOHHと千葉雄喜の一番の差異である、と私は見ている。
それは家族(「地元」的なもの)から連帯(「友達」的なもの)への転換である。
どういうことだろうか。
彼はKOHH時代、地元の仲間を誇る一方で、新しい友達を拒むようなリリックをたびたび残している。
さらに後期晩年の「Untitled」では「友達いない/家族と同じ」(『まーしょうがない』)とまで歌っている。
つまりKOHH時代の彼の考えでは「友達」とは家族的な偶然性を孕んだ絆によって担保されるものだ。
もちろん、KOHHの苦悩の種ともなった業界内での人間関係の影響が大きいだろう。
繰り返しになるが、有名になったり売れるということは仲良くしなければならない対象が拡張されることを意味する。
固有名「千葉雄喜」
しかしそれにしても、千葉雄喜の『チーム友達』とはあまりにもギャップがある。
「同業者に友達はいらない」とまで言っていた男が、なぜ様々なラッパーとコラボをし、生まれも育ちも違う相手と「チーム友達」を歌うのか。
私の考えでは、その変化にKOHHの「死」が関係しているとみる。
先程、私は「偶像としてのラップスター(=KOHH)から、交換不可能で固有な存在(=千葉雄喜)へと転換を果たした」と述べた。
それはラッパーやヒップホップアーティストという「ジャンル」を脱ぎ捨て、「千葉雄喜」というひとつの存在として生きることを意味する。
先に引用した『Business and Art』で彼がなんと歌っていたか思い出してみよう。
彼が本当に求めていた「やりたいこと」とはなんだったのか。
ラップで成り上がりは既に遂げた。芸術も一応の完成を果たした。
となると、残されるのは固有名「千葉雄喜」として、交換不可能な存在となることだ。
それを彼に言わせれば「俺のまま生きる」ということになるのだろう。
ではそれが「チーム友達」にどう関係するか。
彼はKOHHの「死」とともに、その偶像を脱ぎ捨て、ラッパーではなく、千葉雄喜という1人の人間になった。
それはKOHHという偶像が千葉に要請する神格化を捨て去り、1人の人間として外部と対峙することを意味する。
そしてその外部とのかかわり方として、「連帯(=友達)」を提示したのだ。
あまり安直に社会思想と音楽などを結び付けて論じることは避けなければならないが、
私はこの「連帯」が現代社会を考えるヒントになるように思う。
現代は分断の時代である。SNSを開けばどうでもいい内容で論争が繰り広げられ、互いにいがみあっている。
「エコーチェンバー」などの効果により、似たような人たちは似たような人たちで集まりがちだ。
多様性を追い求める現代社会は、多様どころか逆に島宇宙化(*2)が進んでいる。
だからといって「みんなでチーム友達と歌って酒を酌み交わせばいい」というような楽観的なポエムで締めくくりたいわけではない。
ただ、千葉の「チーム友達」シリーズが象徴するような、「多様で弱い繋がりを維持するような連帯」がもっと増えるべきだと思うのだ。
連帯や人間関係は深めればいい、強めればいいという単純なものではない。
しかしながら、現代は基本的に連帯というと繋がりが強いか遮断されるかの二択であり、弱い繋がりというものは無視されている。
私は、もっと弱い繋がり、弱い連帯が増えていくべきように思う。
脱線してしまった。そろそろまとめに入ろう。
これまでの議論をまとめると、千葉はKOHHとしての引退=死を通じて、交換不可能な固有名「千葉雄喜」として復活を遂げた。
それは単なる復活ではなく、KOHHとしての限界を打ち破る試みでもあった。
そして「チーム友達」は、彼が社会に対して提示する連帯の姿であり、深く狭い絆から広範囲での弱い繋がりへと変容していったのであった。
恐らく、ここまで書き記したことのほとんどが千葉から言わせれば「深読み」であることは間違いないだろう。
だがそれでいい。
偉大な批評は深読みからしか生まれないのだ。
*
今更だが私は元々KOHHの大ファンであった。ライブに行ったこともある。
その想いが乗りすぎてしまい、本稿は1万字を越えるボリュームとなってしまった。
これからの彼の活動には益々目が離せないが、恐らくまた我々の想像の斜め上をいく活躍を見せてくれることだろう。
そうすれば、繰り返しリリックで語っていたあの夢も、いつか実現するはずだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
注釈
*1 KOHH、最終作『worst』に至るまでーー動物性のゆくえ
*2 社会学者の宮台真司氏が提唱している概念。似たような価値観を持ったものだけで場を作ることを指す。