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HIP HOP的な、あまりにHIP HOP的な——RYKEY DADDY DIRTYあるいはニーチェ——

RYKEY DADDY DIRTY(リッキー・ダディ・ダーティ、以下「RYKEY」)というラッパーがいる。
日本のHIP HOP界隈では、
よく言えば「やんちゃ」、悪く言えば「問題児」として有名で、
度重なる逮捕や服役、「リアル」を歌いながらもどこか繊細なリリック、
「ヘタウマ」とも称される独特で中毒性の高いフック、
そして何よりもその破天荒な生き様は常に我々ヘッズの関心を集めて離さない。

先日、読書をしながらそのRYKEYの曲を聴いていたら、
思わず手を止めてしまうフレーズが耳に飛び込んできた。

"必要以上に俺に話しかけるな 俺だけは危ねぇ
マルコムエックス ニーチェ マキャベリを読んだばっかりだ 危ねぇだろ"

(Beronica)

何が「危ねぇ」のかはよくわからないが、筆者が注目したのはその口から出た哲学者の名だった。
ニーチェである。

HIP HOPと哲学の関係

筆者は、HIP HOPと哲学が好きだ。
通常、この2つのものは一般的にかなり遠い対極同士にあると思われている。
それもそのはずだ。
HIP HOPは不良やヤンキーのカルチャーとして日本に広まり、
昨今のブームでマス層にも広まったとは言え、いまだにアンダーグラウンドで底辺から這い上がる、というイメージである。
他方、哲学は文系学問の最高峰であると筆者は理解している。
その理解が正しいかはさておき、少なくとも不良やヤンキーが哲学や読書に親しむ、というのはあまり聞いたことがないだろう。
明らかにこの2つは「知」という軸において対極に位置している。

このように対極同士と思われるラッパーから哲学者、しかもニーチェの名前が出てきたことで、
筆者の頭の中にある問いが浮かんだ。
それは、
「哲学者ニーチェを通して、ラッパーRYKEY DADDY DIRTYのリリックを読み解くことはできないか?」
という問いである。

かつて、哲学者で批評家の柄谷行人は、自身が多くの論評を執筆した小説作家、夏目漱石の作品を「マルクスを読むように」読んだと言う。
ならば、そういった批評や哲学、言論的なものの現代における再解釈として、「HIP HOPと哲学の接続」という可能性があるのではないだろうか。

突拍子もない話に聞こえるかもしれない。
しかし、筆者は元来、HIP HOPと哲学の融合に可能性を感じていた。
どういうことか。

HIP HOPと哲学には奇妙な共通点がある。
それは、「引用」と「論戦」だ。

哲学書に引用がつきものであることは、哲学に精通している読者なら周知の通りだろう。
基本的に哲学とは、過去の哲学者の概念を取り出して援用や批判をし、時代背景に合わせて物事を再解釈していく営みだ(と、筆者は理解している)。
HIP HOPにおいても「過去のラッパーのイケてるリリックを自分のリリックの中に組み込む」という引用の文化があり、往年のヒット曲のリリックを新進気鋭のラッパーが引用したりすると「ヤバい」と話題になることがある。
また、多く引用され評価が高い楽曲については「クラシック」と呼ばれ、学問における古典と同等の意味合いを持つのだ。

次に「論戦」は、哲学者同士が書物で互いを批判し、論戦を繰り広げることである。
HIP HOPにおいてはこの書物が楽曲に置き換わり、ラッパー同士がお互いを「ディスり」あう。
フリースタイルバトルとしてカルチャーのひとつにもなっている。

このように見てみるとHIP HOPと哲学の親和性は意外に高く、二項対立というより実はコインの裏表のような側面がある。
双方ともに言論・言説的なものの延長線上にあるという意味においても、
この2つの融合は挑んでみる価値があるだろう。



RYKEYは1987年12月12日、東京都八王子市に生まれた。
日本人の父とケニア人の母を持ち、その多文化的な背景は彼の音楽センスや独特なグルーヴに色濃く反映されている一方、
避け難い運命も作り出した。

"もじゃもじゃな髪 生まれつきを全て否定された
万引きが達者な俺は年上によく好かれてさ"

(MEMORY MY HEART)

"君も知ってんだろ 俺の噂の
ハーフとは遊んじゃダメの噂"

(ホンネ)

差別のようなものがあったのか、あったとしてそれが彼の成長にどう影響したのかは知る由もない。
ただ、いずれにせよ彼は成長と共にヤンキー文化に傾倒していき、所属していたギャング集団で17歳でラップを始めたという。

"中学1年 俺はラッパーにクソ憧れた
何より自由でいて正直で生きてる気がした"

(CRY NOW SMILE LATER)

彼は、それからおよそ10年後の2015年、デビューアルバム「Pretty Jones」を引っ提げ、日本のヒップホップシーンに彗星の如く現れた。
本人のリリックを借りれば、「HIP HOPの第一人者として」「名乗りを上げた」(CRY NOW SMILE LATER)※1のであった。

さて、その後の彼の活躍については目的と逸れるため割愛させていただく。
RYKEY本人に興味を持った読者は下記の記事も参考にして頂きたい。
https://onetrickpony.jp/hiphop/12240/?ssp=1&darkschemeovr=1&setlang=ja-JP&safesearch=moderate

彼の音楽の魅力は、一般的には「リアル」という一言で語られる。
「リアル」とは、HIP HOPにおける概念で、ラッパーの自己表現が自己の内面や生い立ちや環境に忠実であることを指す。

HIP HOPは、もともと貧困や暴力や差別などの社会的問題に直面する都市の若者たちが、自分たちの声を発信するための文化として生まれた。
所謂ギャングスタ・ラップは、ストリートの暴力や犯罪を「リアル」に描写することでHIP HOPの本質を表現するというある種の表現手法で、
日本においても不良・ヤンキーカルチャーと密接な関係にあるのはそのためである。

したがって、ことHIP HOPにおいてはそれが社会通念的あるいは倫理的に正しくなかろうと、
己の生き様を言語化することこそが、音楽的な真正性や信頼性(HIP HOP用語では「プロップス」と言ったりもする)を高める要素たりえるのだ。

RYKEY自身、過去に強盗致傷や暴行などの罪で逮捕され服役した経験が何度もある。
彼の音楽はその反省や後悔、そして娘への愛情を歌詞に込めたリアルで情緒的なものであり、それが多くのヘッズの心を掴んでいるのだろう。

ここまでが、一般的な「RYKEY論」である。

しかし、本稿の目的は、そこに哲学者ニーチェを導入し、そのパースペクティヴにおいてRYKEYのリリックを読み解くというアクロバットを成功させることだ。
それでは、ニーチェにも目を向けてみよう。

2人を貫く「超人思想」

フリードリヒ・ニーチェは、19世紀ドイツの哲学者、詩人、文化批評家であり、西洋哲学における最も影響力のある思想家の一人だ。ニーチェは「神は死んだ」という有名な言葉で知られ、この言葉は、近代社会における宗教的信仰の喪失と価値観の変化を象徴している。
彼の哲学はまた、超人(Übermensch)の概念や永劫回帰の思想によって特徴づけられ、
その挑発的なスタイルと深遠な洞察で、後の世代の多くの思想家や芸術家に影響を与えた。

RYKEYは、3度目の服役中に読んだというニーチェについてこう語っている。

"「やっぱ、俺が思ってることは正しかったんだ」と思いましたね。例えば、「神は死んだ」っていう有名な言葉。自分は神なんだ、自分の人生は自分がやりたいように自由に生きる、誰でも「超人」になれる、みたいな考え方だと思う。"

(サイゾープレミアム内記事より)

ここで「俺が思ってることは正しかった」という表現を使っている点に注目してみよう。
「正しかった」ということは、RYKEYはニーチェの思想に触れる以前からニーチェに通ずる思想を持っていたということなのだろうか。

そのように解釈する余地は十分にある。
なぜなら、RYKEYのリリックとニーチェのテクストには、これまた奇妙な共通点があるのだ。
それは、「ニヒリズムの超克」である。

ニヒリズムは、一般的には道徳、宗教、伝統などのあらゆる基本的な価値観や信念に否定的または懐疑的な態度や思想を指す。
和訳である「虚無主義」の名の通り、世界の全ては無意味であるというある種の諦念に近い考え方だ。
2人はまず、このニヒリズムを出発点とし、それを乗り越えるための闘いを続けているように見える。

ニーチェがその「超人思想」を初めて発露させた『ツァラトゥストラ』を見てみよう。
ニーチェの分身である青年ツァラトゥストラを主人公とした、
小説とも思想書とも形容し難いこの作品冒頭で、
ツァラトゥストラは群衆に向かってこう語った。

"わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あながたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。"

「乗り超えられるべきあるもの」とは何か。
それは現実の虚無や絶望、つまりニヒリズムそのものだ。
現実をありのままに受け取り、それすら自らの意志に変えていける人間、
それこそが「超人」である、と説くのである。
ツァラトゥストラは更に続ける。

"およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き潮になろうとするのか。人間を乗り超えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか。"

「おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創」ることこそが「生あるもの」としてのあるべき姿である。
これは超人思想と合わせニーチェが提唱し続けた『力への意志』へと地続きとなっている思想だ。

一方、RYKEYにも同様の思想が読み取れる。
まず彼のリリックには、不良性や犯罪行為を歌いながらも、
それらの副作用としてついて回る、
絶え間ない苦悩や絶望が滲み出ている。

"血だらけの手 涙眼のこの顔
押し当てたスタンガン
これが意味することの全ては
どうして俺はこんな生き方をした"

(I WANNA SAY HELLO)

"冷たい眼光 世の中ではそれを冷たい眼と呼ぼう
不動産屋のクソジジイめ
売りつけてやろうかてめえにもガンコロ※2"

(マイ・マインド)

"俺が悪魔に身を売った時の話を聞いてくれないか
テーブルの上には粉が今日も撒き散らされていて
注射器を勧めてくる悪い先輩や
シャブもあぶれねえガキは帰れと言われ続けた"

(If Just Say'n…)

ストリートのディープな場面が軽快に描き出されるこれらのリリックは、しかし同時にとてつもない経験としての重みも生み出す。
並大抵の人間ならとても耐えられず心身衰弱に陥り、薬物中毒者にでもなるのがオチだろう。

だが、RYKEYは「超人」だ。
それらのハードな経験をもって「おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創」るのである。

"大丈夫俺たちは人間 タフだ大丈夫
死にたくても死ねねぇから人生は長い"

(GOD feat.唾奇)

"世の中 金か愛か何かそれ以上なら
生きてるうちに俺は何をここで落とし込めるか
生まれる命 一つ何を言えるかそれが肝心
誰より 俺は俺の姿それが肝心"

(LISTEN)

"マイ・マインド 全て俺なのさ
泣きたくなる夜も 笑ってるフリしてる俺も"

(マイ・マインド)

「超人」思想の共通点、それだけでなく「力への意志」や「運命愛」にも通ずる点を読み取ることができるだろう。

しかし、これだけでは十分ではない。
こうして2人の思想を整理してみると、新たな疑問が首をもたげてくるのだ。
それは、この2人がどのような想いからこの超人思想へたどり着いたのか、である。
言い換えると、彼らの超人思想を貫く精神性を読み取りたいという好奇心でもある。

HIP HOP的なRYKEY、人間的なニーチェ

本稿の表題はニーチェの著作「人間的な、あまりに人間的な」のパロディである。
実はこの表題を持ってきたことには理由がある。
RYKEYがあまりにHIP HOP的すぎるからだ。

彼は、現在服役中の大阪のラッパー、REAL-Tを客演に招いた「STREET HERO」において、
このように歌っている。

"アルバイトをしながらラップをしてる奴らを見ていて
俺は心からそんな奴らをバカにして貶した
鼻の周りを真っ白にして福生のクラブに行けば
すぐさまステージの上でラップしてるやつを引きずり下ろして泣かした
何が正しくて何が正しくないそれ以前にそんなことを繰り返してる俺が一番ヒップホップだと信じた
アメ車の中古車 ヤクで作った金でエクスプローラー
隣町の売人を見つけ出し根こそぎ盗ってやった"

冒頭からかなり刺激的な内容だが、注目したいのはこの一節だ。

"何が正しくて何が正しくないそれ以前にそんなことを繰り返してる俺が一番ヒップホップだと信じた"


言うまでもないがRYKEYはその行為に社会通念的な正統性は感じていない。
日本は法治国家なので当たり前だろう。暴力も薬物も犯罪行為だ。

しかしながら、HIP HOP的文脈においてはそれすら「HIP HOP」なのであり、そこに正しさという軸はない。
RYKEY自身、己を疑うたびに「俺が一番ヒップホップだと信じた」のであり、
その精神性こそが超人思想のようなマッチョイズムを下支えしているのではないかと思う。

それでは、ニーチェの超人思想を下支えしている精神性とは何か。
ニーチェは、本稿表題の原題となった作品について、次のように語っている。

"『人間的な、あまりに人間的な』は一つの危機の記念碑である。それは自由精神のための書と呼ばれている、この中のほとんどどの一句もみな一つの勝利を現わしている——私はこれで私の性質の中にある身につかぬものから自分を解き放ったのだ。理想主義は私の身につかぬものである。標題の意味は「君たちが理想的なものを見るところに、私は——人間的な、あまりに人間的なものを見るばかりだ!」というのだ……"

(この人を見よ)

難解な言い回しだが、ようするに
「理想的なもの(あるいは人)から解放されて、人間的な(ありのままの)人間を受け入れる」
ということである。
これこそがニヒリズムの原初的形態であり、
ニーチェはそこから超人思想を見出したということだろう。

こうして並べてみると、2人の精神性はアプローチはやや異なるものの、
ありのままの自己をRYKEYは「ヒップホップ」的として、ニーチェは「人間的」として扱い、
それらを「乗り超えて」邁進するという点において、完全に共鳴している。
そして、それこそが「超人」であり、「力への意志」であるのだ。

おわりに

この記事を執筆するにあたって、改めてRYKEYの曲をよく聴き込み、ニーチェの著作も読み込んだ。
その過程で、筆者は両者ともに更に好きになっていった。

RYKEYもニーチェも、作品以外の部分では人騒がせというか、なかなか荒くれ者な生き方である。
だが、それがいい。
HIP HOP だろうと哲学だろうと、言葉で世の中をひっくり返せる大きな仕事は、
「例外的な存在」からしか生まれない。

自分自身も、HIP HOPと哲学という表象のレベルでは相容れない両極に魅了された、
「例外的な存在」である。
自分もいつか世の中をひっくり返すような言葉を綴りたいと思うし、
RYKEYとニーチェの言葉はいつでもその背中を押してくれる。

RYKEYは来る1/21(日)、昨年リリースされたニューアルバム「Mother Jane」を引っ提げ、
地元である八王子でワンマンライブを開催する。
筆者ももちろん参戦する予定だ。

もしこの記事でRYKEYに興味を持った読者は、
是非ライブに参加して、そのあまりにもHIP HOP的な男の姿を目に焼き付けてほしい。
全席指定のホールでの公演なので、HIP HOPライブ初参戦の方にもオススメだ。
https://eplus.jp/sf/detail/3995370001

"反面を教えてやんのが HIP HOPの価値"

(RYKEY DADDY DIRTY『Mother Jane』)

"形而上学者の基本的な信念は、価値が対立しあうという信念である。"

(ニーチェ『善悪の彼岸』)


最後まで読んでいただきありがとうございました。

注釈

※1 原リリックは「HIP HOPの第一人者としてまた名乗りを上げた」であるが、この「また」とは2019年頃のYZERR(BAD HOP)へのディス前後を指していると解釈し、2015年のデビューに言及する本箇所では「また」を省略し、鉤括弧で隔てるという引用方法をとらせていただいた。
※2 覚醒剤を表す隠語。

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