ある時代、その場所だけの、限られた時間|映画『ゼンブ・オブ・トーキョー』感想
読みさしのアンリ・ルフェーヴル『都市への権利』には、都市を変化させるための都市に住まう人間の主体性のことが書かれている。近代以降、とくに先進国で急速に均質化される都市の風景のなかにあって、そこに生きる私たちもまた住人として、つまり都市の一部として同様の均質化を被っているのではないか。だとすれば、これは人間と都市の序列の逆転であり、都市によって人間という生き物がなにかしらの様態として規定されているということだ。さて、ここ何年かで東京はいよいよ「どこも同じ」と言って差し支えないくらいの均質化が完了しつつある、というのが東京で生まれ、育ち、今も住処としている「東京の住人」としての私の感覚だ。それでは、どこを見ても同じようなここ東京の全部とは、「ゼンブ・オブ・トーキョー」とは一体何のことだと言えるのだろうか。
日向坂46の四期生が主役である本作は、地方から東京へ修学旅行にやってきた学生の一日を描いている。主人公の池園優里香(演:正源司陽子)は班長として事前に自由時間の行動予定を事細かに準備しているが、班員にはそれぞれ東京でやるべきことがある。はじめは池園が入念に用意した(しかしありがちな)「東京の全部」を見るための観光を済ませていた一行だが、昼食を予定していた店が開店すぐの時間にもかかわらず行列になっていることをきっかけに各々が目的のために別れて行動することになる。ここまでは作中の序盤も序盤だが、名所巡りではないところに彼女たちの本当の目的があるのはいわゆる東京観光なるものには彼女たちの「東京」は存在していないことをすでに示している。結果的に取り残された池園はその後、一人で観光地巡りを再開するがその背中は寂しい。(それはそれとして正源司さんの観光の様子が素晴らしい!歩く、ラーメンをすする、話しかけられる、写真を撮る、走る。そうした小さな行動の一つひとつに不思議な躍動感があって、このまま一人観光の映像が続いても満足したかもしれないくらいだった!)そのようにして東京中を歩いてまわる彼女は作中、散り散りになった班員の物語に間接的に関係していくトリックスターの役回りとなるが、彼女自身もまた東京という舞台で迷う者の一人であるという図になっている。それは彼女が東京にとって外の存在であり、画一的な東京観光というルールによって動かされるだけの主体性の無い存在であるということでもある。対照的に班員たちは皆、明確な目的のもと行動しているが、しかしそれは地元での生活の延長上のものであるのが面白い。これは後に池園が言う「皆がいなければ東京の全部ではない」というのと繋がっている。物語において焦点が当てられるのは目的のために行動する各班員であり、池園の様子はそれらの合間に差し込まれるような形で、班員と関わらなければ何とも作業的な観光として映されている。東京観光とは東京で何を体験するのかではなく何のためにその場所を歩くのかが大切であるというわけだが、何もそれはこういった観光に限った話ではない。誰もが大きな夢のため、もしくは日々の小さな目的のために生きていて、どんな場所も本来はそのための道具でしかない。後半、東京という道具に惑わされていた池園は引率の教師である日沼(演:八嶋智人)によって夢のために行動していた桐井智紗(演:渡辺莉奈)と合流することになる。池園というキャラクターの素晴らしいのは自分の計画が班員に避けられていて、これまで一人での行動を強いられていたことに薄々気付いていながらも、それでも自分の殻に閉じこもることなく何かあればまずは他人のことを思いやるところだ。(ここでもやはり、正源司さんが渡辺さんのために走る姿に無性に感動した……!)つまり池園は東京という場所に、そしてともに行動する予定だった者たちに行動の決定権を奪われている状態が続くのだが、そうして他者のために動くからこそ、池園はそのキャラクターを掘り下げる描写が少ないにもかかわらず魅力的だった。状況に振り回されるというよりも進んで他者と関わろうとすることで、東京における池園の時間がある形を取って次第に浮かび上がってくるのだ。終盤の合流後に班員それぞれの行動を聞きたがるのも、色んなことが起こって、それに関わり、結末を見届けるというのが、外の世界であり、そしてどこまでも同じような風景が続く東京という逗留地における本当の池園なりの過ごし方だったということを表しているようだった。そのようにしてこの地で過ごしたそれぞれの時間を聞いて、それらを自分の中で大きな一つの思い出として合わせることで池園の「東京の全部」が完成することになる。均質化が一段と進む以前から、東京は移り変わりの激しい場所だった。押井守が『機動警察パトレイバー2 the Movie』にて都市開発のために取り壊される下町の風景を映したのは有名だろう。そこではまさに姿を変えようとしている都市がそこをトボトボと歩く松井らを見下ろしているかのようだったが、東京を一人で観光していた池園も同様に、本来はそこに住む人間の脇役であるはずの都市に見下ろされていたのではないだろうか。なのであれば、一人で歩き続ける彼女の背中の寂しさは、均質化された殺風景な都市の不可逆な変化に巻き込まれてその存在の主導権を握られていたことによるものであったと思う。しかし終盤、そろそろ陽も暮れるかという中で浜辺で遊ぶ仲間たちを眺めながら桐井と話し、立ち上がった池園の後ろ姿は一転して充実感に満ちたもののように思えた。この一日において池園の周りの十人にはそれぞれの、この時だけの時間があった。それでは、それらと関わった池園にとって「東京の全部」とは東京という都市の全てのことではなく、そこで過ごした周囲の人間たちの、その瞬間の全部のことではなかったか。それは池園が知る限りでの全部のことではあるが、彼女にはそれだけで十分に思い出に足るもののはずだ。
物語の最後には高校を卒業し、それぞれの場所に別れていく彼女たちが示唆される。将来、東京のことは思い出されるだろうか。この修学旅行にはたしかにその時の彼女たちの時間の全部があった。だが、それは常に移りゆく東京と同様に、一人ひとりの人生にとって束の間の出来事に過ぎない。卒業式に向かう最中も一緒にいる彼女たちだって、じきにそれぞれがそれぞれの思い出の一つになってしまうのかもしれない。しかしそれはその瞬間の主導権が彼女たち自身にあったのならば、たとえ記憶にほこりを被ったとしても何も悲しいことではないのだろう。人生はかくも切なく、だからこそ美しい。そんなことを思った作品だった。