【小説】ラヴァーズロック2世 #04「イランイラン」
イランイラン
少女は毎朝違う制服で登校する。
私服校にもかかわらず、日替わり制服に執拗にこだわる、モデル体型のチョット信じられないような美少女。
セルフデザインの制服が詰まった巨大なウォーク・イン・クローゼットから派遣された優秀なアイドル評論家で、彼女自身、不幸にも全てのトップアイドルを凌駕するほどの美貌を持って生まれてきてしまってはいるけれども、公正で的確な批評性を発揮するのに何ら支障はないし、つまらぬプライドや優越意識も持っていない。
今日の制服の基調色はネイビーブルー。わりとガーリーなシルエットで、皮膚のようにピッタリと密着した見事な仕立て。
埃ひとつついていないこの完璧な制服に触れられるのは、朝の心地よい風を受けて踊る長い黒髪だけ。
イチョウの葉を思わせる白ブラウスの丸襟は、濃紺色のベストの上に柔らかく垂れ、ワインレッドのクロスタイの中心を飾るパールのピンブローチが、朝空に浮かぶ淡い月のように冷たく輝いている。
彼女のこの度を越したスタイリングには、それなりの理由があった。
確かヴィスコンティだったか、今でははっきり覚えていないが、むかし偶然に観た古いイタリア映画の一場面。黒い子牛皮の古書が並ぶ壁面書棚の前で、優雅に立ち振る舞う上流階級の人々の姿に、彼女は釘付けになったのだ。
役者として貴族を演じるは、本物の貴族の末裔たち。その子供から老人までが身にまとう衣装に使われていた極上のテキスタイル。その分厚い生地の高級感に、なぜだか彼女は心を奪われてしまったのだ。
そこには、膨大な予算をつぎ込んだハリウッド映画であっても決して到達できない、得もいわれぬ〈本物感〉があった。
歴史や伝統に裏打ちされた、真の教養を持つものだけに着用が許された贅。本物中の本物としての被服が、確かにそこにあったのだ。
それは、意図する、しないにかかわらず、実写映画に特有の、いわゆる画面に〈映ってしまうもの〉、そして〈語ってしまうもの〉だった。
被服はそれ自身のみでは存在せず、つねにそれを着る〈ある種の人間〉と境目がわからなくなるくらいに混ざり合うものだと映像は語りかけてきた。
そう〈ある種の人間〉。気高く、つねに上品な笑みを絶やさず、それでいて、自身の地位を脅かしかねない案件には、けっして首を縦に振らない貴族的不寛容さを自然に身につけている人々……画面に映る、そんなかれらの立ち振る舞いにも彼女は思わずグッときてしまったのだ。
極端な経済格差、その想像を絶する富の集中が生みだした〈美〉。善悪やイデオロギーを超えた残酷なまでの〈美〉の伝統は、表面的には形を変えているものの、今でも脈々と受け継がれていることを、そのあと彼女は知ることになるのだが……。
やがて少女は、自分もその〈美〉の派川に触れてみたいと願うようになっていた。少女はその誘惑に抗うことができなかったのだ。
しかし、単純にハイブランドのアイテムで身を飾ることを彼女は選ばなかった。少女の目に突き刺さってきたのは単なる被服ではなく、ましてや身体としての気高き人々それ自身でもなく、被服と身体の境界線がなくなり混然一体となったときの、あの、えもいわれぬ〈本物感〉だったのだから。
自身を取り巻く文化や地域性などに結びついたものでないと、せっかくの高級感が陳腐なものに成り下がってしまう。
熟慮の末、彼女が最終的に出した結論は、〈学校制服〉だった。自身の年齢、環境を考慮すれば当然の結果だったのだろう。
ヨーロッパから服地を取り寄せ、自らデザインし、仕立ては有名ブランドのライセンスを持つ国内企業に発注した。
少女は見事に仕上がった制服をクローゼットに並べると、肩口を撫で、襟や袖口をつまんで、生地のきめ細かさや厚みを味わった。
後から思いついた裏地の刺繍は、完成した制服をわざわざヨーロッパに送り、オートクチュールの刺繍職人に仕上げさせたもの。まさに、学生として考えうる限りの贅の極みだった。
あの日あの時、偶然に観た映画の一場面が、すれ違いざまの暴漢の一撃のように、彼女の精神の形を物理的に変形させてしまったのだ、多分永遠に……。
こうして、少女にとって最高に幸福な朝が毎日訪れるようになったというわけ。
朝陽の射しこむ部屋で、今日の気分で選んだ制服に着替えると、全身鏡の前に立つ。
黒々とした長いまつ毛が、大きな瞳を少し眠たそうに見せてはいるけれども、気分はこれ以上ないほどに高ぶっている。
薄いクリスタルでできた透明な身体に、冷え切ったミルクが流し込まれるような感覚。四肢は冷たく引き締まり、ハウリングを起こしたようにキンキンと鳴る。
少女は中指と薬指をそっと耳の後ろにあてがい、鏡に向かって微笑む。
そして次の瞬間、何かを思いだしたかのように鏡のフレームからサッと外れ、そのまま姿を消してしまう……。
場面は戻って、校門から校舎へと続く、けやき並木の長いランウェイ。
少女は正方形の敷石の上を大きな歩幅で颯爽と歩く。
風にそよぐ梢からは木漏れ日のメイプルシロップが滴り落ち、まだ子供っぽさの残った白い頬の上で、はじけるようにきらめきながら、その犯罪的な柔らかさを祝福する。
ローファーの硬い靴音も、朝露に濡れた敷石のせいで、いつもの鋭さはなく、くぐもったリズムを刻み続ける。
揺れるスカートの裾は、その独特の〈ゆらぎ〉でもって歩行音のリズムとズレ、あたかも衣服それ自身が主役であるかのような素振り。
まるでランウェイショーの四つ打ちリズムをかたくなに無視して歩く、トップモデルの生意気な顔つきのように……。
「おはよう、イランイラン!」クラスメイトが後ろから声をかける。
少女は立ち止まり、上機嫌で振り返る。
細くしなやかな身体の回転に少しだけ遅れて、長い黒髪と濃紺色のボックス・プリーツ・スカートがふわりと広がりスローモーションで少しだけ浮き上がる。
運よくその光景を目の当たりにした女子たちは、あまりの美しさにため息を漏らしてしまう。
イランイランの〈美〉、それは一瞬で終わる少女時代の象徴としての〈美〉……彼女たちはその一瞬に永遠を垣間見てしまう。
男子生徒たちは気づかない。そもそも、〈美〉と〈時間〉の関係性に思いがいたらない。要するに、いつの世も男子はピンとこない生き物なのだ。
イランイランは誰にでも分け隔てなく敬語で話しかける。
それは、他者と常に一定の距離を保ちたいという理由ではないらしい。実際、彼女の話し方からは、他人行儀な冷たさを全く感じない。
どのような存在に対しても一定の敬意を表する生まれ持っての性格が、嫌味なく自然に相手に伝わるからなのかもしれない。
そうそう、イランイランたちがこのスクールに入学して、まだ間もないころのお話。
突然襲ってきたくしゃみを何とか食い止めたような妙な顔つきで、イランイランをにらみつけるひとりの少女がいた。
ショートカットの小柄な美少女で、どう見ても武闘派の顔つき。
実はこの少女、ミドルスクール時代は〈美貌カースト〉のトップに君臨し続け、栄華を極めていたのだが、進学したとたんに上には上がいることを、これ以上ない最悪なかたちで思い知らされたという次第。
まあ、よくある話なのだが、現実をどうしても受け入れることができずにいたのだった。
廊下ですれ違うたび、彼女はイランイランを露骨ににらみつけた。
周りの生徒たちは気が気ではなく、授業に集中できなくなる女子も続出する始末だった。
ある日の昼休み、いたずらっぽい顔をしたイランイランが、例の武闘派少女のクラスに現れた。
その不機嫌オーラのせいで孤立気味のショートカット少女は、そのとき自分の席でいつものように背もたれに腕をかけながら虚空をボーっと眺めていた。
イランイランは背後からそっとその少女に忍び寄ると、優しく包み込むように後ろから抱きすくめたのだ。
突然のことにビクッと反応した直後、武闘派少女は動けなくなる。
イランイランは彼女の心情を代弁するかのように「やめてください……やめてください」と耳元で甘くささやいたのだった。
すらりと背の高いイランイランが小柄な少女を後ろから包み込み、ゆっくりと揺れている……幼子をいつくしむ母親みたいに……。
ああ、何という悪魔の所業! 少女の顔はみるみる赤くなり、そのまま石灰岩のように固まってしまったのだった。
かわいそうに、武闘派少女はこの一件以来、イランイランを見かけるたび、あまりの愛おしさに涙を流すようになってしまった。
ショートカットだった少女は髪の長さをさらに短くすると、イランイランの影の親衛隊隊長になることを決意した。
イランイランをあらゆるものから守ること。イランイランのためだけの組織、些細な陰口でも見逃さない徹底した秘密組織を作り上げることを本気でもくろんだのだ。
しかし、それは全くもって無駄であることがすぐにわかってしまう。
イランイランは掛け値なしでみんなに愛されていたし、たとえ陰であっても彼女の悪口をいうものは、誰ひとりとしていないことがわかってしまったのだ。
その事実を知った武闘派少女は、うれし泣きをしながら更に髪を短くした。そして、後頭部をスースーさせながら、また後ろから抱きしめられたいと願う日々を送り続けた。
そんな彼女の日々の妄想ニヤニヤ笑いは、いつの間にかその顔つきを柔和にさせ、それが仲間を引き寄せ、ひいては彼女のスクールライフをこの上なく幸せなものに変えていったのだった。
「おはよう、イランイラン」「イランイラン、おはよう」
廊下ですれ違う生徒たちとの挨拶の声が段々と大きくなるにつれ、クラスメイトたちは彼女が刻一刻と教室に近づいてくることを知る。
教室に入るなり、自分の机にスクールバックを引っかけるイランイラン。
席に座ることなく、先ずはその場で一回転して、お約束のスカートをひらり。
そのとき、偶然一番近くにいたクラスメイトを捕まえ、敬語で楽しそうに話し始める。女子だろうが、男子だろうが、関係ない。仲良しグループとか、親友などという概念も彼女にはあまり関係ないみたいだ。
知らず知らずのうちに数人のクラスメイトが徐々に会話に加わってきて、朝一番にふさわしい、すがすがしい笑い声が冷えた教室を暖めはじめる。
このような談笑は、先生が教壇に立つまでしつこく続けられる。
さすがに授業中は上手にクラスの中に溶け込み、背筋をピンとさせた優等生的姿勢を何とか保とうと彼女なりに頑張りはする。
長いまつ毛のパチパチオメメも、ブラックボードを一生懸命見つめ続けている。
が、ついに〈睡魔〉というのぼり旗を掲げたアメリカバイソンの大群が、土埃を撒き上げながらなだれ込んでくると、さすがのイランイランもこくりこくりとうなずきはじめる。
白目をむいても、なお一層可愛いお顔。手だけはカリカリとペンを走らせているふりを必死で続けてはいるが、それもとうとう動かなくなり……突然ビクッと身体が反応し、自分自身が一番驚き、一瞬の覚醒……そしてまた徐々に可愛らしい白眼顔へ……と、基本的にはこんな感じの繰り返し。
そして、昼休み前、午前最後の授業中。偶然に発生した先生の割と長めの沈黙。生徒たちも物音をたてず、小鳥たちのさえずりも消え、校門前の車道を行きかう車も途絶える一瞬の無音状態。
あの、11時45分ころに訪れる奇跡の瞬間。「キュルルルル」と誰かのお腹が鳴って、教室中に響きわたる。
クラスが笑いに包まれる中、「ゴメンなー、イランイラン。もうすぐ終わるから我慢してくれ」と先生がにこやかに声をかける。
みなが大笑いする中、イランイランの顔はみるみる真っ赤に……。
もう恥ずかしくて、照れ笑いしている自分の顔を両手で覆うと、小っちゃな顔は手の中に全部隠れてしまう。
真顔の授業モードに戻るには少々時間が必要なようだ。
「あっ、そうだ! 今日は例の転入生が来る日だった。危ない危ない……お昼休みには会いにいかなきゃ。ランチの前に会いにいく? それとも後? かれが学食にいっちゃったら、わたしきっと見つけられないし……でも、ランチ前にお話ししたら、またお腹が鳴っちゃって恥ずかしいかも……」
誰にも見えない掌の中のイランイランは、もうそんなことを考え始めていたのだった。
つづく