感想「ヤクザと家族 The familiy」

イオンシネマがやっている見放題のやつで見ました。
結局1日に映画を3本見ることになりましたが、意外と集中して見られました。
コスパがいいのでオススメですが、頻尿気味だとどうしても中断されうるので気をつけてください。


さて感想ですが、結論から言うとあまり面白くなかったです。

が、これは僕が細かいところばかり論うオタクだからかもしれません。
この作品が本当に好きで、いっぺんの曇りも許せない方、重箱の隅をつついて本当にすみません…

良かったところ


まずなんと言っても俳優陣のビジュアルがとても良かったです。
特に2005年の綾野剛と、2019年の磯村勇斗のビジュアルは本当にかっこよかったです。男性でもシビれる良さでした。
舘ひろしを始めとしたおじさんズも渋くてかっこよかったです。

演技もドスの効いた声を徹底していていい感じでした。まあその分、ちょっとぶっきらぼうにも感じましたが、どうなんでしょう。

2019年の綾野剛の表情が見せる無力感というか、自分に出来ることが何も無いことを悟っている感じがよかったです。

市原隼人もかなりの名演技でした。不器用で、アニキを慕うチンピラそのものでした。後半部分の彼の不遇さに共感し、いたたまれない気持ちになりました。名演です。



配役にケチをつけるなら尾野真千子です。いくらなんでも無理があるでしょう。
学生と聞いて夜の店で働くぐらいだし社会人出戻りパターンかと思ったら、「老けすぎだろ」のツッコミでストレートの学生なんですか!?とかなり驚きました。
尾野真千子さんは現在39歳らしいですが、いくら女優さんでも限界があります…
14年後の尾野真千子の収まりが良すぎてめちゃくちゃ安心しました。


画作りについても、14年後のケンジが矮小に見える画面構成とか、14年後の薄靄のかかった感じとか、繰り返し用いられる煙突のモチーフとか、ケンジやヤクザの環境を上手く情景描写に落とし込んでいる点が多かったように思います。

印象的だったのは、2005年ではいかにもな黒塗り高級車だったのが2019年でプリウスになっていたことでした。
あれだけでヤクザの肩身がどのように変化したかを窺い知ることができます。

また、SNSでケンジらのことが暴露された際、由香が「高級ソープ嬢」とされていたのも印象的でした。
実際は高級クラブ(なはず)ですが、ソープ嬢のほうが話題性があります。そちらが事実とされるのは自然でしょう。

こういった小ネタ的な表現のリアリティが高く、もう一度見返す機会があればそれに注目してみるのも面白いかなと思いました。


冒頭の3人がボコボコにされるシーンがえげつなくて、目を背けたくなるくらい良かったです。
あの真に迫る雰囲気はなかなか出せないんじゃないかなーと思います。


キャラクターについて述べるなら、中村のキャラクターが非常に良かったです。
不器用で馬鹿真面目、と評されていましたが、恐らく組で1番の切れ者で組を1番愛していた男だと思います。
だから組の存続のためにシャブの密売に手を出すし、やり切れない思いをシャブで解消します。
この理想と現実の葛藤が彼の中に見られて魅力的でした。
ゴルフやる組長をを怪しげに見つめるあのカットだけなんであるのか気になりましたけど…あんなんどう見ても裏切る感じじゃないですか…


良くないところ


これが一番なのですが、観客が補完しなければならない部分が非常に多かったです。
これはあらゆる大衆向け作品で欠点となりえると思いますが、特にこうした主題を通じて何かしらのメッセージを織り込むのであろう作品で、観客に委ねる部分が大きいのはかなり致命的な欠点だと考えています。


恐らくですが、これは画面の美しさとトレードオフなんじゃないでしょうか。
先程にも述べたように映像自体はかなり洗練された印象を受けました。
構成に美しさを求めた結果、説明や補足と言ったいわゆる「ダサさ」に繋がる部分をかなり省いているんじゃないか、と邪推します。
俳優の顔のアップがやたら多く、それで2時間使うのか、という風に感じました。
実際俳優の顔の良さで2時間持たせることに成功していますし、その目的は達成されたのでしょう。


とはいえストーリー全体を通じて説明不足なのは変わりません。「何故?」がかなりぼかされているように感じました。

冒頭からしてなんでヤクザになるのかわかりません。
ケンジは確実に両親と確執があったであろうに、そこは描かない。
けど父親の死の原因となったシャブは嫌い。
加藤にボコボコにされ、どのように助けられたかもわからず、助けられたという事実だけを示されてなぜか恩義を感じてヤクザにはならねぇよと啖呵をきったケンジはあっさりとヤクザになります。どうして…


キャラクターの設定としても、ケンジはかなり短絡的だし組長は甘すぎます。
舐められたから酒瓶で殴る、そのケツを拭いてあげる。
部下を殺されたから、警察に頭を下げた親父の顔に泥塗って報復する。それを抱きしめて許す。
これを短絡的と甘さと言わずになんというのでしょう?
これが本当に仁義なのでしょうか?

というか全体的に柴崎組が甘すぎます。土地抗争に関しても、ヤクザ相手に脅しかけてどうするつもりなんでしょうか?
脅しとハッタリだけで何とかなる世界ではないと思うのですが…

そう考えると資金源としてシャブを売り敵対勢力の土地や構成員に圧をかけてる加藤の方がヤクザ的にはかなり合理的に感じます。

由香の関係もよくわかりませんでした。
ヤクザの誘いを拒絶するのはかなり肝が据わってるなと感じましたし、その反応がヤクザにとって新鮮だったのは想像できます。
けど二人がやったことといえば海行ってそれぞれの身の上を軽く話しただけです。
なぜその後血まみれのヤクザがいきなり家に来て体を求めてきて、それを受け入れるんでしょう。なんでそれで好きになれるんでしょう。 なんで14年後も好きなんでしょう。 なんで一緒に暮らすんでしょう。止まりません。
一応、我々の与り知らぬところで実は愛を深めあっていたのだ、と補完することは難しくはないですが…


14年後、細野はヤクザを脱して全うに生きていました。
であれば、なぜケンジを完全に拒絶しないのでしょう?
オモニ食堂で「今の時代、ヤクザとはかかわれない」ということを当人に突きつけたのなら、5年ルールの存在があることを知っているのであれば、それを貫き通すべきです。
チンピラ時代からの友情を優先したのだ!と言われればそれまでですし、実際そういう風に考えたのだろうと推測できますが、それは当人の優しさ≒甘さです。
その責任をケンジに押し付けて刺し殺すのは筋違いではないでしょうか。
そしてそれを抱きしめて受け入れるケンジもまた、甘いです。
職業を斡旋し由香を見つけるなどした(ヤクザとかかわりを自ら進んで持った)時点で細野は自らも責任を負っています。
最終的な不幸の報復の相手として最もふさわしいのはケンジではなくSNSに写真をアップロードした彼です。

出所後のケンジについてですが、5年ルールの存在もヤクザが周囲に与える影響も、浦島太郎には説明された(どうして刑務所の中で情報が入らないんですか?)はずなのに、愛を求めて由香にフラフラするのは、愛ではなくエゴじゃないでしょうか。
結果そのエゴのせいで由香とあやの生活は破壊されます。
2人の生活を徹底して蹂躙した挙句、残した言葉は「普通になりたい」だの「まだ愛してるから一緒暮らしたい」だの、やはりエゴにまみれたものです。
本当に愛しているのであれば彼女らの平穏無事を願う方が愛ではないかと思います。

家族が主題のようですが、なぜ組長に対して仁義や愛情があるのか、なぜ由香との間に愛情があるのかが描かれてない上に、ケンジは全体を通してエゴに基づいて短絡的に行動して周りを傷つけます。
それらを通じて家族の尊さを読み取れと言われても、難しいのではないでしょうか。


一応、ヤクザには普通に生きることも許されないのかという結論に着地することもできます。し、HPを見る限りその結論が正道なのかなと思います。(これだと主題は「家族」ではないようにも思えますが…)
確かに、普通に生きたい、普通に愛を感じたい、そのためにエゴを振り回して、うまい(社会的にまともな)やり方を知らないがゆえに周りを傷つけた、という風に読み取れなくもないです。
家族愛の欠けた青年が不器用にその愛を求め続ける姿と解釈することもできます。
実際レビューサイトでは「ヤクザ以外の生き方を知らない男の悲哀と、社会から排されたもの達の生き方について考えさせられた」という意見がかなり多いです。

けれど、先に述べたように「そのようにしか生きられなくなった過程」がわからず、ただ「こういう状態で、とりあえず恩義を感じている状態」を与えられ、観客はそこへ至るまでを補完しながら断片的なエピソードの連続を見せられている感覚でした。
なぜ悪いほう悪いほうにばかり歩みを進めてしまうのかが常に疑問としてありました。


加えてですが、本来ヤクザって存在するだけで周り傷つけてないですか?
意図的に(柴崎組に限らず)ヤクザが周りを傷つける描写が少ないように感じました。
柴崎組に至ってはシャブすらやらないようです。
資金源がぼったくりバーしかないって本当ですかね?ほかにもいろいろと違法行為をやっていると思うのですが…


作為的にそうした「傷つけられる一般人」を排することで、主人公サイドに対し感情移入させやすい構造になっているのかなーと感じました。柴崎組、およびケンジとかかわる人間たちは、前半では立ち向かう存在であり、後半では弱者でとして描かれます。
対照的に加藤や警察は一貫して柴崎組に仇なすものとして描かれます。

けれど本来、我々がイメージする(そして現在も生き残っている)ヤクザはもっと悪質で、残忍で、周りを傷つけて生きています。

ヤクザの人権なんてない、と劇中にありますが、当然です。ヤクザに対する不条理も矛盾も暴対法も、すべてヤクザのそれまでの行いによるものです。


それが「元」ヤクザにまで影響すべきか、という部分がこの映画において重要なのでしょうし、確かに一考の余地はあると考えます。
元ヤクザはヤクザであったというその一点で社会的弱者です。そして関わる人皆を不幸にしてしまいます。不条理では、あります。

しかし、先に述べたように「一般人の視点」が明らかに抜け落ち、主人公サイドがやけに被害者として描かれているこの作品を通してみれば、かっこいいヤクザや元ヤクザ=ケンジの肩をもちたくなるのが自然です。

この非対称な構造に何か不信感を覚えるのは私だけでしょうか?

あとシンプルに豪華俳優陣はセコいです。そりゃ感情移入したくなります。かっこいいし。

二点目は、表現が陳腐に感じました。
セリフ回しひとつとっても、次に何言うかわかってしまうような安易な展開で、本当に失礼なのですが思わず笑ってしまいました。
これは私に脚本家の天賦の才があるか、脚本家が凡人かのどちらかなんですが、今までの人生を省みるに私に脚本家の才能はありません。

特にラストシーン!なぜ中華料理屋で二人を殺したケンジが海岸まで逃げおおせているのでしょう?なぜ細野はそこにケンジがいることがわかるのでしょう?なぜあやはケンジがお父さんであることを知っているのでしょう?であればなぜ由香はケンジのことを娘に話したのでしょう?(愛故と言われればそこまでですが)

脚本の粗のしわ寄せが一気に襲ってきてびっくりしました。

その他


私は映画を見た際に必ず評価を見るようにしているのですが、皆さん判を押したように「ヤクザはまともに生きられないのか、かわいそう」と言っていて怖くなりました。まともでない生き方を選択したのは彼らなのでは…?

自己責任論に帰結するのは危ない気がするのでセルフ弁護しておくと、確かに環境によって選択を強制されてしまった人間が不条理や矛盾の悪影響を被る構造に異を唱えることには全面的に賛同します。
けれど皆さんあのストーリーで満足なんですか? マジで展開は読めるのに展開どうしの繋がりが薄くて細切れのエピソード群を見せられている感覚でした。
一応これについても、エピソード群から監督が意図するエッセンスを抜き出すことに観客が慣れきっている、と考えられます。であればベタなエピソードの連続であっても観客が満足するのも頷けますが…

前評判がよすぎる以上、それを上回るのを期待してしまうほうがよくないのですかね…

あと、よくない点で長々と「補完しなければならない」と指摘したけれど、もしかしたら私が「普通の人が普通に読み取れる行間を読み取れていない可能性」があります。普通の人を自認しているつもりなので、それだけは避けたいです。
もし普通にわかるだろ、という意見の方がいればぜひ教えてください…お願いします…


まとめ

総合して、「社会的制度の矛盾によって生まれた強者のような弱者」に対する問題提起的な作品としては結構いいものだと思いますが、それを台無しにするレベルでストーリーが穴だらけなもったいない作品だと感じました。
ノベライズとかがあればかなりマシになりそうな気もします。


満足したので終わります。

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