日常と非日常 あるいは宗派について

 鳥取県八頭の光澤寺について、私が思っていることを書く。同じ過疎化が進む地方集落にある浄土真宗本願寺派の寺院として、ご住職の経営手腕を興味を持って見てきた。あんなに目標に向かって一直線に不動の信念を持って突き進んでいく(と私には見えるのだが)ことは私にはできない。私はもっとはるかに惑いながらジグザグに進んでいる。条件も全く違う。第一、私が預からせてもらっている寺の周囲には、あんなに豊かな自然環境はない。小さな住宅地の真ん中に位置しているので、立地としては、非日常的な威光のようなものは全くないと思う。そして、それだけが理由ではないが、私は自分の預かる寺を非日常空間にはしたくないし、できないと思う。そうかと言って、地域住民の日常生活に密着した、水か空気のような寺になれるかと言えば、それも難しいのだが、そこを目指していく野望を捨てるのもよくないと思う。宗教が葬送儀礼や瞑想体験のような非日常にしか関われないとすれば、仏作って魂入れずである。まちがっていたら御寛恕いただきたいのだが、光澤寺は大自然の真っ只中にある宿坊として、非日常の提供ということに重きを置かれているのではないだろうか。

 宗派に対する考え方も比較しておこう。私が浄土真宗本願寺派の僧侶になったのは偶然の産物に過ぎない。多くの仏教宗派の中から主体的に選び取ったわけではない。真言宗・日蓮宗・臨済宗・浄土真宗をそれぞれ学んで比較した上で浄土真宗が一番いい、もしくは一番自分に合っている、と判断したわけでは全然ない。たまたま生まれたところがこの宗派の寺だったからだ。その私が、いろいろ問題のあるこの宗派という制度を大切にしていこうとしている。私のような者にそう思わせてしまうこの力がすごいと思う。これが例えば納骨堂による永代供養という制度だったら、たまたまそこに生まれたという理由だけで、自分の判断ぬきに一生を賭けて守っていこうという気になるだろうか。光澤寺ご住職のブログは相当前から折に触れて拝読しているが、宗派など屁とも思われていない、と言って悪ければ、ご自身の寺院経営手腕に自信を持ち、そのために宗派の力など全く借りる必要がないと思っていらっしゃる。ここには大きな問題が示唆されている。優れた個人の能力は歴史にまさるのか。よくいえば清濁併せ呑みながら、悪くいえば腐敗堕落しながら数百年の時を経てきた組織の持続力、民衆教化力は、何よりも人間そのものが清と濁の混合物であることに裏打ちされているだろう。精緻な教義体系の存在も無視できない。どちらが最終的により大きな持続可能性をもたらすか。

 ここから先は余談として、新しい「領解文」問題について少し書いておこう。私もできればこんなおぞましい争いに関わりたくはないのだが、宗派を大切にしていこうとしていると告白したばかりなので、何か一言あってしかるべきだ。結論を言えば、私は「これは誤りだ」と言うより「これはこう解釈すれば正しい」と言うほうが生産的であり、不毛ではないと思っている。一旦出したものを取り下げることができない以上(この大前提の是非そのものを議論すると一生あっても足りないので何も言わない)、現状に何を加えればより良くなるのか考えるのが現実的というもので、できないことを求めても仕方がない。尾籠な喩えで「うんこをカレーにすることはできない」と言った人もいたようだが、それができてしまうのが釈の力、言葉の力というものだ。

 時系列でまとめると次のようになる。2023年1月、新しい領解文発布。同5月、新しい領解文の問題点を説明するパンフレットが全国の寺院に発送される。2024年3月、新しい領解文は問題ないと主張する冊子が全国の寺院に発送される。同6月、新しい領解文の是非をめぐる問答を多数収録した宗会の議事録が全国の寺院に発送される。

 つまり、次は新しい領解文には問題があるとする側から応答する番だ。クラウドファンディングで充分な資金を集めていることだし、近いうちに何かアクションがあるだろうと期待している。また、もしも矛を収めるつもりなら、なんらかの終息宣言を出していただけるだろうと期待している。そんなことは万が一にもないだろうが、もしもこの問題が終わったのか終わっていないのかわからない状態になるとしたら最悪だ。


新しい「領解文」問題とは

2023年1月、浄土真宗本願寺派の門主(宗派のトップで、日本国にとっての天皇のようなものだと考えればわかりやすい)が「新しい領解文」を発布した。これは従来の領解文が室町時代の言葉で書かれていて現代人には理解されにくいところから、わかりやすい現代口語へ改めたものだ。と言っても単純な現代語訳ではなく、いろいろ原文にはない要素を野心的に盛り込んでいる。そのことから勧学・司教(これは大学で言うところの教授・准教授のようなもの)を中心に批判が爆発した。浄土真宗の教義に反するというのだ。すぐさま取り下げろという声が上がった。しかし世俗の組織とは異なり、ひとつの宗門が正式な手続きを経て発布した文書を取り下げることはできない。そこで4月20日、クラウドファンディングサイトCAMPFIREにて「新しい領解文を考える会」が全国の寺院にこの問題を説明するパンフレットを郵送したいというプロジェクトを立ち上げ、わずが6時間で目標金額を達成し、1ヵ月弱で407%の達成という偉業を成し遂げ、570万円を集めて募集を終了した。このパンフレットは私のもとには5月初旬に届いたと思う。6月には朝日新聞のような一般紙までがこの問題を「お家騒動」という言葉を使って報じた。確かにこの内輪揉めは外部からは紛れもないお家騒動に見えるだろう。要するにこれは江戸時代の三業惑乱にも比すべき宗門の大スキャンダルで、恥なのだ。発布した側からの応答としては、翌2024年3月7日付で「なぜ『私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ』なのか」と題する冊子が全国の寺院へ発送された。これは新しい領解文中の問題の多いとされる箇所を説明し擁護したものだ。さらに6月上旬には「宗会だより」第7号(2024年3月発行)が同じく全国の寺院へ発送された。この中の議事録にこの問題に関する問答が多数収録されていた。これら二つの主張はシンプルで、約仏的と約生的というあまり一般的でない言葉が使われているが、要するに「われわれは同じことを別の言葉で述べているに過ぎない、だから争う理由はない」ということだ。ここに至って最初は理に適った主張をしているように見えた新しい領解文批判者たちがいたずらに好戦的なだけのように見えてしまうようになった。争いを無化する解釈が示された後にもあえて自説に固執して争いを継続するなら、そう見えてしまうのも当然だ。そもそも大学の教養課程程度の仏教の知識があれば、煩悩即菩提、生死即涅槃といった論理は奇異でもなんでもなく常識に類することに感じられるだろうし、古語から現代口語への翻訳が言葉としてのわかりやすさと意味の忠実な伝達のどちらかを犠牲にしなければ成り立たない宿命を持っていることも当然で、前者を優先して後者を犠牲にするなら注釈と説明で意味を補うのがまっとうなやり方だろう。何が〈問題〉だったのか、本当はさっぱり判らない。

(以上は現時点での私の解釈である。外部の方に説明する意図で書いた。もし明らかにおかしいことを言っているとお気付きの親切な方がいらっしゃったら、御叱責・御教示いただければ幸いである。窓口はいくらでも開放している。)


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