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最も平易な対人関係は恋愛(解説)【Joker2】


はじめに

JOKER2を見てきた。
今年はこのためにあったと言っても過言ではなかったが、一言でまとめるとすれば、「え、これで終わり?」という気持ちになった。

映画館からの帰りに、「んー、これはどうやって自分に腹落ちさせればいいんだろう」と考えながら自分なりに仮説を立てつつ、その後3回くらい見て出た結論をこのnoteにまとめてみたので読んでみてほしい。

解説としては、
1.JOKER2を見終わった後のあのモヤモヤ感はなんだったのか
2.結局主人公のアーサーは多重人格なのか?(ジョーカーという存在はそもそもいないのか)
という2つについて話している。

1.JOKER2を見終わった後のあのモヤモヤ感はなんだったのか

私たち観客はハーレクインと共に、ジョーカーに蛙化したという視点

2023年の流行語大賞のトップ10入りを果たした「蛙化現象」というもの、このキーワードがJOKER2という映画の大枠を占めていると考えて良い。

蛙化現象とは、もともとは「ある男性に好意を持つ女性がいて、その男性も自分に好意を持っていることが分かると生理的な嫌悪感を抱いてしまう現象」にあてられる言葉であるが、最近では「相手の言動によって気持ちが冷めること」として広く用いられるようになった。
JOKER2の大枠を占める蛙化現象の意味は後者に当たると考えてもらって良い。

さらに掘り下げるとすると「悪のインフルエンサーとして支持していたジョーカーがただの社会的弱者だった」というオチなのである。

本作のヒロイン、レディーガガ演じるハーレクイン(リー)は、我々と同様に悪のインフルエンサーであるジョーカーにひどく心酔していた。
これは、観客である我々も同様だろう。「今回はどんな社会的テロを引き起こして私たちを楽しませてくれるのだろう」という期待に胸を膨らませて映画を見に行った人は少なくないはずだ。

だが実際はどうだろう。
支離滅裂で冷めた発言しかしないジョーカーに段々と期待は薄まっていき、終いには「ジョーカーはいない、僕はアーサーだ」と告白する始末。
リーが髪を切った理由と、我々が彼に憤慨する理由は等しく、「ジョーカーに”蛙化”したから」である。

映画を見終わった後の、あのやるせない感覚は失恋だったかもしれないとこのnoteを書いている私は解釈している。

そしてこの蛙化の原因は「我々のイメージするジョーカー(アーサー)と、実際のアーサーの間に乖離があったこと」であり、どうして彼はジョーカーであることを受け入れられなかったのか、2.の部分について考えていこうと思う。

2.結局主人公のアーサーは多重人格なのか?(ジョーカーという存在はそもそもいないのか)

エイリアスという概念

ジョーカーとアーサーの間に乖離が生まれてしまった理由を解説するために、エイリアスという概念を紹介したい。

エイリアスは、澤円さんの執筆した「メタ思考」で論じられている概念であり、もともとは村上春樹さんがエッセイか何かでテーマにした概念である。簡単に言えば、特定の場所にいる自分それぞれを、自分の名前をまとった分身として捉える考え方である。

大学の友人といるあなた、高校の友人といるあなた、バイト先のあなた、家族の前でのあなたは全て微妙に振る舞い方や見られ方が違うだろう。
それは、コアなあなたを起点とする分身であり、コミュニティ内での人間関係をスムーズにする上で自然とできていることが多い。

エイリアスは、多重人格とは異なる概念である。
というのも、エイリアスは”コアな自分”を起点とする分身であるため、どの人格も必ず一貫性を持っていないといけない。
優しい人間がどこかのコミュニティで暴力的であるパターンは少ない。
他方、多重人格とは起点とする”コアな自分”がないため、言葉を選ばずに言えばなんでもありである。
普段は温厚な人間が暴力を振るっているパターンは実際に存在し、このような人たちが起こした犯罪は責任能力なしとして無罪になるケースも存在する。

実際にJOKER2での裁判はここが争点になっているわけである。

自分に結びつかないエイリアスは破綻する

前作JOKERの解説で、アーサーのジョーカーとしての行動は「反抗」として扱った。反抗を行うのは、自分の人格を元にした新しい性格(エイリアス)であり、自分の新しい人格(多重人格)ではないと私は考える。何が言いたいのかというと、「アーサーは多重人格者ではない」ということだ。

前回例に挙げた、おもちゃを買ってもらいたくて駄々をこねる子供。
おもちゃを買ってもらいたくて暴れているのはその子供自身であり、別の人格ではない。
ストライキも同様に、会社への不平不満に耐えながら仕事をしていた人間が、たまたまその時会社への不平不満を押し出しているに過ぎない。これも別人格ではない。

ジョーカーも同じである。誰も僕を相手にしてくれないし、正当な方法で社会が相手にしてくれないなら人を殺せばいいんだ、と反抗したわけだ。社会への不平不満を押し出した性格を新たに作ったわけで、それは自分に起点を持っているわけだ。

エイリアスは”コアな自分”を起点とするため、使いこなす上でのルールとして「自分に嘘をついてはいけない」というものがある。
自分に結びつかないエイリアスは破綻するのだ。
例えば、素でテンションが低い人は、高い状態を保とうとすると自分に嘘をつき、無理をしている状態になる。普段おとなしい人がワイワイガヤガヤした場所に行った時に、体力的だけでなく精神的に疲れを感じるのはこのためである。

つまり、結局は普段は温厚で優しい性格だったアーサーが暴力的な反抗をするジョーカーを自分のエイリアスとして受け入れられなかったのである。いっとき出てきた自分の新しい性格は自分に嘘をついた性格であったため破綻したのだ。
そして「ジョーカーはいない、僕はアーサーだ」と告白したわけである。

「アーサーは衝動的にジョーカーという新しい性格を生み出して犯罪をしたけど、新しい性格を演じているうちに保つのが難しくなってきた時には、ファンが増えてて取り返しがつかなくなりました。」
これが前作と本作の一連の流れである。

おわりに

「JOKER2は蛙化現象である」と一蹴してみたはいいものの、前作に比べてこんなに簡単に済ませてしまっていいのだろうか。。。

これは持論だが、対人関係は恋愛から下ろして考えると、非常に解像度高く理解することができると考えている。
今回の解説が簡単に済んだのは「蛙化現象」というぴったりのワードが既にあったからだ。
厳密に考えると、これは恋愛が平易なのではなく、コンテンツとして世の中で広く議論され、扱われているため、対人関係を考える上で我々が最も考えやすいだけなのであるが、筋が良い考え方であると自負している。

営業や商談、就職活動から身近な人付き合いに至るまで(企業も”法人”と考えると)、必要なことは相互理解と相手の立場に立って考えることであり、なぜか私たちはその行いを恋愛の当事者となった瞬間に意識し、行動に落とし始める。

長期インターンや就活等でことあるごとに「相手が恋人だったらどうか」と口酸っぱく言っていたのは、実は昔の上司の受け売りなのだが、対人関係で詰まったときはぜひこの考え方を思い出して乗り越えてもらえると幸いである。

エイリアスについて気になった人はメタ思考を読んでみてほしい。
コミュニティに対して性格を使い分けるという行いは、コミュニケーションを円滑にするとともに、自分を守ってくれることもある。


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