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『パビリオン・ゼロ:空の水族園』 at 葛西臨海公園 途中リタイア者の日記
2月9日、葛西臨海公園という場所に初めて行ってきた。『パビリオン・ゼロ』なる展覧会を観に……。アーティストの布施琳太郎さんによる企画で、CCBT(シビック・クリエイティブ・ベース東京)という団体の助成を受けて実施されたもの。以下は布施さんのサイトに掲載の説明文からの抜粋。
この度、皆さんに観測していただくのは架空の水族園です。空のなかに「ソラ」と「カラ」を重ね合わせた『パビリオン・ゼロ:空の水族園』が、30時間だけ、葛西臨海公園にオープンいたします。
二つの読み方を持つ「空の水族園」は現実と想像力のあいだでゆらめいています。観測を希望される方は、アイマスクのように視聴覚を包み込むヘッドマウントディスプレイを通じてAR(拡張現実)とVR(仮想現実)を行き来していただきながら公園を歩き回り、様々な作家たちによる映像や音声、パフォーマンス、オブジェと出会っていただきます。映像が空を飛び、届かないラブソングがうたわれたかと思えば、別の天動説が現れる……ここでは書き尽くすことのできない出来事たちは、皆さんの目の前で生じることもあれば、過去や未来のなかにしか実在しなかったりします。
布施さんの活動はずっと追っているのと(何せ作品について単著で論じたくらいだ)、VRを活用するというのも興味があってダメ元で抽選に申し込んだのだが、当選したのだった。
しかし、これから書くのは展覧会評的なものではないです。抽選の倍率がめちゃめちゃ高かったらしいので言いづらいのですが……自分は途中リタイアしてしまったのです。なので自分自身のことを知るための日記という意味合いが強いです。なぜリタイアしてしまったのか……
以下時系列に。
13時半、ツアー参加者30名に向けた説明会が開始。促されるままにヘッドギアを着けてみる。眼鏡をかけたままだと無理だったので、乱視でぼやける視界の上から被ることに。ちなみにこれ以前にVR体験はほぼゼロと言っていい。それこそ展覧会的なものでちょっと着けてみた程度だ。そのときも若干酔った記憶があるが……
しばらくすると布施さんが登場し、今回の概要と注意事項を参加者に向けて伝える。
「耐えがたい恐怖を感じたら手を挙げてスタッフに伝えてください」
「現実と虚構の境目を見る努力を怠らないでください」
布施さんらしいレトリックかと思ったが、実際に言われた通りに(耐えがたい恐怖を感じ/現実と虚構の境目が見えなく)なってしまった。
開始5秒で……
抽象的な映像が流れる中、耳元で女性の声がいかにも「作品」という感じの散文的な文章を読み上げていくのだが、それに「逃げ場がない」「取り込まれている」という感覚を覚えてしまい、恐慌状態一歩手前になってしまったのだ。
割と大きな声で「うわあ! 無理だ!」みたいなことを言ってしまったので布施さんはじめスタッフの皆さんにも、他の参加者の皆さんにも、申し訳ないと思っている……
ヘッドギアを着けていなくても、ツアーに同行することは可能ということで(もともと抽選に当たっていなくても参加者の後ろについていく形で同行は可能なのだが、自分の場合は当選の権利を使って「船に乗る」こともさせてもらえるとのことだった)、おずおずと隊列についていった。
集合場所から船着き場に向かって歩いていく。道中、「ペンギン男」が奇声を発しながらやってくるのだが(倉知朋之介さんという方の「パフォーマンス作品」らしい。どういう風体だったかは『美術手帖』のレポート記事を参照)、ヘッドギアを外しておいてよかったと思った。たぶん着けていたら、リアルファイトを仕掛けていた……
さっきのVRに「取り込まれた」感覚が頭に残っていたので、戦っている自分がありありと想像できてしまった。
映像と彼のパフォーマンスがVR空間上で混ざりあっていたら、本当に現実と虚構の区別がつかなくなっていたと思う。パフォーマンスというのは、「この線の先で繰り広げられてるのはすべて演技ですよ」という了解があって観るものだと思うけど、VRによってその線が消失してしまったら……すべてが現実という名の虚構しかない。
普通だったら向こうからいきなりペンギン男が走ってきたら、自分は逃げると思うのだが、フィクションの中だったら戦うと思うのだ(そのほうが面白そうだから!)。
途中にも「パフォーマンス作品」がありつつ、船着き場に到着。船の上では全員ヘッドギアを外すということだったのだが、待合室でヘッドギアを被ったままの説明パートがあるらしく、みんなヘッドギアを被っているのに自分だけ被っていないという状況の居心地の悪さと、「自分と違う現実」をリアルタイムで観て・聴いている人たちがこれだけいるんだという事実が恐ろしくなり、先に外に出させてもらった。
しばらく待っていると説明を観終えた他の参加者が待合室から桟橋方面に出てきた。合流しようと腰を上げたら、桟橋の向こうから怒号を上げる女性(これも黒澤こはるさんという方の「パフォーマンス作品」だったらしい)がやってくる。これでとどめを刺されてしまった。ヘッドギアを外したにもかかわらず、「パフォーマンス作品」の連打で現実と虚構の区別がつかなくなってきていて、とどめに怒号という、現実だろうが虚構だろうが自分が最も苦手とする「音」が飛び込んできてしまったから……
スタッフの方に、船に乗ったら30分降りられないと説明を受け、そんなある種の密室状態で、ヘッドギアを外したとはいえ「自分と違う現実」をついさっきまで観ていた、しかもそれでいて、自分のように恐慌状態一歩手前になっていない――もちろんそっちのほうが正常なんだと思うけど、そのこと自体もまた「この人たちは自分とは違う世界を生きている」事実を突き付けてくる――人たちに囲まれていたら、本当の本当に恐慌状態に陥ってしまう。スタッフの人にお願いして、逃げるようにその場を離れた……
自分はなんでこんなに恐怖を覚えてしまったのだろう?
まず、VRの世界には逃げ場がない、と感じたということがあった。
これは「世界」との距離がないから怖い気がする。つまり、物理的な引っかかりがないから怖いんじゃないか。身体というマテリアルと、道具や作品といったマテリアルとの間に物理的な距離ができることで、初めて「主体」というものを捉えることができる。自分にはそんなイメージがある。
自分は「脱身体」的なことを言いがちな自覚があるのだが、正確には「自分の身体」(これが「主体」だと普通はされている)という消失点さえも、徹底的に道具や作品(オブジェ)と同じマテリアルなものとして考えるべきだという立場で、概念上の「身体」というマジックワードを疑うべきだ、ということを言いたいのだと思う。
だから自分の本でも「作品」の話や「半透明な主体」の話をしているんだと思う。「作品」が物理空間の中に存在すると、「自分の身体」との物理的な距離を観測する、浮遊する視点=半透明な主体が発生する……自分は「作品」というものを、徹底的にマテリアルな要素の組み合わせとして捉えていることにも気づかされた(思えば布施さんの作品もそういう論じ方だ)。
だから正直言って自分の「作品」というカテゴリの中に「パフォーマンス」とか「演劇」は入っていなさそうだなと思う。「現実と虚構の区別」という問題設定そのものが、たぶん自分の中にはインストールされていないのだ。
映画とかはどうなんだと思われるかもだが、映写機から出た光がスクリーンに映し出されていて、そういう意味ではマテリアルに依存しているから「作品」として距離がとれるんだと思う。自分がメディウムとか装置とかソフトウェアみたいな話をしがちなのも、たぶんこれが理由である。
「人はみな違う現実を生きている」という真実を忘れたふりをして成立したフィクションのことを、世間では「現実」と呼んでいる気がする。社会生活というもの自体が、フィクションという感じがする。その中で常に「演技(パフォーマンス)」をしながら生きているのだ。
あと、最初に禁止事項を重ねられたのも「逃げ場のなさ」を強化していた気がする。段取りがあるから手を動かさないで(映像の中に浮かんでいるスタートボタンに触れると映像が切り替わってしまう)という指示があって、自分は一回ボタンを触って次の画面に進んでしまったから気を付けていたのだけど、この過程によって「自分には目の前の世界に介入することはできないんだ」という無力感が一気に目の前の世界に広がった感じがあった。
次に「自分とは違う現実を生きている」人が、リアルタイムで隣にいることを突き付けられる恐怖感である。
布施さんのVRとは何か、という説明の中で、「人それぞれが人それぞれの現実を生きている。まあそれって当たり前のことですけど」という話があったが、自分はそのことに気づかないふりができるようになったことでなんとか社会生活を営めるようになったという実感があり、それを改めて物理的に突き付けられる(みんながヘッドギアを着けているという形で具現化される)と、なんというか……これまで必死に積み重ねてきたものが一気に崩されてしまったような感覚になる。
この感覚は「自分だけがヘッドギアを外していた」状態のときに一番あったのだが、最初にヘッドギアを着けたときも、他の人が聴いている音が漏れ聞こえてくることで(ヘッドギアの音声はイヤホンなどではない開放型の仕組みであることを初めて知った)それを通じて別の人がいま「自分とは違う現実」を感じていることはわかるので、その時点でかなり泣き出したいような恐怖感を覚えていた。
そして「見られている」ということ。これはいろいろな人がすでに感想を投稿しているが、ヘッドギアを着けている自分自身が誰かの見世物になっている。その事実自体が怖かった。
自分は「違う現実」を見ている人が隣にいることに怖がっているのに、その姿を他人に見せているということは、自分も他人に同じ恐怖を与えているんじゃないかと……
そもそも、人から見られる、ということに対する覚悟というか想像が足りていなかったというのもある。ものすごく素朴な話として、見世物になるのは嫌だった。
ふらふらと参加者・スタッフの元を離れて、少し水を飲み(スタッフの方が差し出してくれた。ありがとうございます)、気持ちが落ち着いたところで辺りを散歩してみた。天気は快晴で、穏やかな日差しの中道行く人が談笑したり遊んだり芝生に寝転んでいたりしている。「隣にいる人が「別の現実」を生きているかもしれない」なんてこと、まるで考えていないように。
こっちのほうがよほど美しい「バーチャル」じゃないか、と思った。木漏れ日の揺らめきや空の青さの解像度だって、こちらのほうが比べものにならないくらい高いのだ! 自分は現実という最高のバーチャルに生きているじゃないか、そのことをこれまでにないくらい感謝した。現実最高!
だから、自分の「テクノロジー」に対するスタンスは、ちょっと見直さなければならないな、とも思った。そもそもこの言葉の指す範囲は広すぎるのだが、視聴覚を使うという意味で(自分が編集者・ライターとしてアンテナを張ってきた)アニメや音楽といったエンタメ領域とも相性がいい……と一見思われている。しかしVRというのはメタテクノロジーというか、単純に視聴覚を使うからアニメや音楽と相性がいい、というものではない気がする。
それよりはむしろ、まさに「現実」とか「世界」とか、そういう人間の根本原理に関わってくるようなものなのだ。そこの価値観とバッティングしてしまったら、今回のようにそもそも体験することが不可能になる。
だけどメディア企画というのはそういう個々の偏差には目を向けず、ビジネス的な(最大公約数的な)論理にしたがって決まるものなので、「テクノロジーについてライティングできます!」とか言っていると、多数派と同じ感覚の持ち主だと思って依頼が来てしまう。だからそういう言い方は先回りしてやめておかないとなと、物書きとしてのブランディング的な観点から思ったのだった。
最後に余談ですが、葛西臨海水族園の球体ドーム(布施さん的にも重要らしい)が、パソコン音楽クラブの名作『See-Voice』のアートワークにあしらわれていた建物だと気づいたのはなんだか嬉しかったです。