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長編小説「長いお茶会」・第1章③春。私は「奇妙な貴婦人」と出会い、お茶会に誘われる
**前回までのあらすじ**
「私」はあるとき喫茶店で、奇妙な女性、指宿卿子(いぶすき・きょうこ)に話しかけられる。彼女は「私」に、自分のおこなっている「活動」のこと、自分自身のことについて話すが、その話の内容は、奇妙なものにしか思えない。しかし「私」は、彼女に自宅に誘われたとき、あやつられるように、素直についていってしまう。
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卿子の家は、よく手入れされた庭が並ぶ、閑静な住宅街にあった。彼女のあとをついて門の中へ入ると、庭を眺める暇も与えられず、玄関へと導かれた。
卿子がドアを開けると、学校の制服のようなものを着た若い女の子が目の前に現われた。
こんな綺麗な娘がいるのか、と驚いたが、私はこのあと、彼女が腰にエプロンをつけていることに気づいた。はじめ、私の目は彼女の美しい顔を中心に胸から上のカットだけをとらえていたため、全体像を把握するのに0.1秒遅れてしまったのである。彼女が着ていたのは、白い襟のついた、黒い、メイドの制服であった。
卿子は彼女に、こちらは喫茶店で知り合った景都ちゃん、とだけ言った。彼女は、小さな声で反応し、そしてすぐに、姿を消した。
「彼女、珠緒さんていうの」
卿子が言った。
「これまでにもいろんな人に家の中のことをやってもらってきたけど、住み込みのメイドさんは、彼女がはじめて。珠緒さんとも、喫茶店で知り合ったの。本当にいい子なのよ。とっても優秀だしね。ちなみに彼女、あなたと同い年よ。世の中にはいろんな十九歳がいるのね」
くやしいがそのとおりだ、と思いつつ、私は、卿子について廊下を歩いていった。
「あの制服は、彼女が持ってきたのよ」
「どういうことですか」
「服飾の専門学校に行ってる知人につくってもらった、って聞いたわ。その人といろいろ相談しながらデザインを決めたんですって。だから彼女は、あれを着たくて着てる、ってわけ。実は、私と珠緒さんには不思議な縁があってね」
卿子は話しながら、部屋のドアノブに手をかけた。
「私ね、昔、サーカスでブランコ乗りのショーを観たことがあるんだけど、そのときにブランコに乗ってた女性のことがずうっと気になってたの。うまく言えないけど、ほかのブランコ乗りの人たちとは違う、特別な何かを持っているような、そんな感じがしてね。それで、ずっと覚えてたんだけど・・・珠緒さんと会ったときにいろいろ話してて、わかったの。なんと、そのブランコ乗りの女性が、珠緒さんのお母様だったのよ。彼女のお母様は、有名なサーカス団のいちばんの花形スタアだったの・・・いえ、過去形で言うのは間違ってるわね。今でも、現役で活躍してらっしゃるってことだから」
本当ですか、とたずねる私の声は、ドアを開ける音でかき消されてしまった。
「まず、家の中の重要なところを案内するわ。ここは、居間。この家の中心。心臓部にして、私のお気に入りの場所」
私は当然、中に入るようすすめられたのだと思った。しかし、すぐにドアは閉められてしまった。
次に私は、浴室へとひっぱっていかれた。なぜ浴室?と私は面食らったが、卿子は自慢の部屋を披露するのと同じような態度で、ドアを開けた。そこは、小さな窓の磨りガラスをとおして入ってくる午後の光と、静けさで満たされていた。
猫足のバスタブのそばには、甘い香りをはなっているミルク色の石鹸(表面に刻まれた文字だか模様だかがまだ形をとどめているところをみると、卸してから日がたっていない)、海綿のスポンジ(この家の浴室に来る前は、どこの海にいたのだろう?)。そして、石鹸と同じミルク色の容器に入った、シャンプウとリンス。その容器の中央には、金色の、流れるような文字で商品名が(私が聞いたことのない名が)、記されていた。
このあと、かたわらにある便器に目を移すと、それは、石鹸やシャンプウの容器とおそろいの色の、陶器のかわいい置き物のように見えた。
台所の場所も教えとくわ、などと卿子が言うので、私はふたたび、メイドの珠緒と顔をあわせることになった。私は仕事中の彼女に、お前はいったい何をしにきたのだ、というような顔をされてしまった。
さて、二階に上がってからが、長かった。私はまず、階段を上がってすぐ右手にある部屋を見せられた。
その日当たりのいい部屋は、どうやら来客用の寝室らしかった。
入ってすぐ正面には、大きな窓。左手の壁には大きな本棚、机と椅子。机の上のほうには、丸形の壁時計。右手にはベッド。家具は、どれも木製。
私は、本棚に目を戻した。来客に手にとってもらうためなのだろう、本棚の一番下の段には何冊かの本が無造作に並べられ、それ以外の段には、大判の写真集や画集が、表紙を見せる形で置かれていた。こんな大きな本棚は客用寝室には不似合いではないか、と思ったが、このときの私はそれ以上、気にとめなかった。
椅子の背もたれとベッドのヘッドボードの中央はおそろいのハート型にくり抜かれており、その周りには丸い葉っぱをたくさんつけた細い茎がうねうねと曲線を描いていた。よく見ると、その葉っぱも、ハート型であった。
私は机に近寄って、そこにボールペンの、黒い、細い線の跡(青空に投げたボールのようなのびやかな弧を描き、そして最後のほうは、点々になり、かすれ、消えている)、小さなひっかき傷などがあるのを見た。
ここからの眺めもいいのよ、と言って卿子が窓を開けたので、私は彼女と並んで庭を見下ろした。庭のあちこちには、小さな春の花が咲いていた。先ほど目の端でとらえただけのピンクや黄色などが、上から見ると、淡い水彩画のように見えた。
「つい先日まで、庭の手入れをしてくれる人がいたんだけど、彫刻家になりたいからそっちのほうに専念したい、って理由で辞めちゃったの。彼女は将来、自分の作品だけで大きな彫刻公園をつくるのが、夢なんですって。まあ、次の人は、ゆっくりさがすわ」
それから彼女は、こちらが聞いてもいないのに、その彫刻家志望の女性について話しはじめた。
「彼女、私の夫と同じくらいの背丈があって、すらっとしてたわ。手も大きくて、綺麗な長い指をしていて、頬骨が高くて。眉毛は濃くて、つながりそうになってた。ちょっと独特な感じの美人だったわね。彫刻をやってる本人が、彫刻みたいだった」
卿子の声は耳には入っていたが、私はその部屋の真ん中で、別のことを考えていた。
それは、ここで小説を書きたい、ということであった。
今、住んでいるあのうす暗い部屋を出て、ここで執筆できたらどんなにいいだろう。次の瞬間、私はそれを正直に口にしていた。
「あら、そう。じゃあ、うちに下宿する?」
卿子が言った。いいですね、と私は笑顔で即答した。
「私、いつか日当たりのいい部屋に引っ越したい、って思ってたんです。もう、すぐにでもここに住みたいくらいですね。でも、今の状況では」
クビ、という言葉が私の頭をかすめた。しかし卿子は、私が最後に発した言葉などまったく聞こえていないように、言った。
「いいわよ。はい、じゃあ、決まりね」
彼女は窓を閉め、鍵をかけた。
冗談とはいえ、ちょっとずうずうしかっただろうか。部屋を出る段になって、私は急に冷静になり、恥ずかしくなってしまった。しかし、私はすぐに、気をとりなおした。大丈夫。若い女の子がただの願望を口にしているだけ、ということくらい、彼女だってよくわかってるはずだ。こんな冗談、真に受けるわけがない。
次はここか、と私はその部屋のさらに右手へ行こうとしたところ、止められた。
「そっちの部屋には、いろんなものが置いてあるの。入っちゃだめよ、絶対に」
ここは私の部屋、こっちは夫の書斎ね、と卿子は次々にドアを開けてはバタンバタンと閉めていった。そのため、部屋の中の様子はほとんどわからなかった。
家の中は、思ったよりも広かった。部屋数は予想していたほど多くなかったが、部屋そのものが、広々としていた。
最後に行きついたのは、夫婦の寝室だった。またすぐにドアは閉められるものと思っていたら、先に部屋に入った卿子が、私に手招きをしてきた。それから私は夫婦の寝室で、大きなベッドを前に、ふたたび、長々と話を聞かされることとなった。
「寝る前に夫に、いろんな話をするの。その日の社交活動の成果とかね。彼もほんとに幸せよね。私みたいなおもしろい女と結婚できたんだから」
ベッドの上に投げ出されたままのガウンが、もう少しでずり落ちそうになっていた。・・・あれはたしか、キモノ、っていうんだっけ?キモノを、ガウン代わりにしているのか。
違うわよ、と卿子が言った。
「あれは、本物のキモノじゃなくて、キモノを参考にしてつくった、ガウンなの。お友達が、私のためにつくってくれたのよ。いいでしょう」
私は、それを着ている卿子を想像して、似合うだろうな、と思った。キモノ風ガウンをさらりと羽織って、大きな猫のように部屋の中を歩く彼女。そばで見ていたらきっと、こう思うに違いない。ああ、素敵、なんだか映画の一場面みたい、なんて。
第1章④へ続く。
この小説は7章⑩で完結です。
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