P・G・ウッドハウスの本は、読まなくても、そばに置いておくだけでいい気分になる。
近くの店にお茶を飲みに行くとき、どんな本を持っていくか?というと、まず、写真集を持っていくことが多い。
空想旅行にぴったりのお気に入りのものが何冊かあって、とくに、パイ・インターナショナルの「世界の美しい庭」や「世界の個性派カフェ&レストラン」などは、サイズも手ごろで、持っていくのに、ちょうどいい。
では、小説は?というと、P・G・ウッドハウスの、「ブランディングズ城の夏の稲妻」(国書刊行会)を持っていくことが多い。
しかし、私はこの本を「読む」ために持って行っているのではない。
手に取ることはあっても、写真集と同じように、ぱらぱらとめくって、登場人物の台詞や文章を拾い読みするだけだ。
そうやって、お茶を飲んでぼんやりしている。
ではなぜ、内容もすでに知っていて、読み返すつもりもない本をわざわざ持っていくのか?
それも、400ページ以上ある、重い本を。
それは、この本をそばに置いておき、そして、ときどき手にとってぱらぱらとめくって拾い読みしたり、表紙を撫でさすったりするだけで、この本の中に描かれている世界をなんとなく感じとることができて、それだけで、いい気分になれるからだ。
ウッドハウスの小説すべてに言えることなのだけど、「ブランディングズ城の夏の稲妻」のあらすじも、たいしたことはない。
一応、事件は起こるのだけど、それは、「事件」とも言えないくだらないことで、伯爵の飼っているブタやら、伯爵の弟の回想録やら、伯爵の甥っ子の恋人がどうしたとかいう小さなことが重なり合って「事件らしきもの」をつくっているだけなのだ。
最後は大団円、とわかっているので、もし再読するとしても、最初から最後まで、安心して読むことができる。
退屈、といえば退屈なのだけれど、でも、この本の存在が、私にとっての、「平和な世界へいざなってくれるツール」なのである。
本の形をした、楽園。
ウッドハウスはこの本の序文で、自分の作品に対して、「おなじみのウッドハウス世界のキャラクターが全員、別の名前で登場する」と揶揄した批評家について書いている。
つまり、毎度おなじみのキャラクターが名前だけ変えて登場して、毎度おなじみのドタバタを繰り返しているだけ、ということだ。
しかし、これこそが、読者に安心感を与える要素なのだ。
隅々にまで太陽の光が届いている平和な世界、ここには本当の意味での悪人はおらず、多少欠点はあってもみんなおもしろくておかしくて楽しい人ばかり。
全キャラクターが、この楽園で、永遠に年を重ねることなく、永遠の一瞬を生きている。
まるで「サザエさん」のように、いつもそこに変わらない世界がある、安心感。(ウッドハウスの作品を揶揄した批評家は、そのことがまったくわかっていなかったのだ)
アガサ・クリスティーの「ハロウィーン・パーティー」を読んだとき、ウッドハウスへの献辞がかかげられていて、二人の関わりを知らなかった私は、ちょっとうれしくなった。
「彼の本と物語は長い間わたしの生活を明るくしてくれた。」とのことだが、そうでしょう、と私は胸の内でつぶやいた。
ウッドハウスが書くような「おめでたい」小説がなかったら、世界は灰色になってしまう。
本というのは、もちろん、読まなければ内容はわからない。
一度読んだあと、また再読する、という楽しみもある。
しかし、ただそばに置いておくだけでいい気分になれる、という効用も、あると思う。
私にとって、その筆頭がウッドハウスの本なのだけど・・・ほかの人も、こんなふうに、「ただ置いておくだけ」のために本をバッグに入れてカフェに出かけることはあるのだろうか?
本好きの人に(いや、別に本好きでなくてもいいけど)、「あなたは、どんな本をそばに置いておくと気分がいいですか?」というアンケートをとったら、おもしろそう、と思うのだけど。