『ゼンブ・オブ・トーキョー』はお手本のような青春群像劇だ
日向坂46・4期生11人がメインキャストを務める映画『ゼンブ・オブ・トーキョー』を観てきた! ちょっと出遅れて、公開翌週の水曜日に。
これがとても良かった! 「アイドル映画」という建付けが上手く効いて、重い設定、ギスギス展開、ヤダみ等々もなく、ただただ爽やかな青春友情群像劇として完成されていた。
そしてそう、11人それぞれのメンバーを活かすべく、この作品は「群像劇」の構造を取っていた。そしてその点がとにかく良かった!
設定やロケーション等々の力をもってして、群像劇のお手本のような、群像劇の教科書のような作品に仕上げられていたのだ。
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まず「群像劇」という言葉の意味を共有しよう。不要ならごっそり飛ばしてOKです。
例えば『孤独のグルメ』は「五郎さん」という1人のキャラクターがメシ喰ってるところをひたすら追う作品なので、群像劇ではない。ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズも、主人公「キョン」の一人称視点で出来事を追ったり他のキャラクター達と関わっていく構成なので、これまた群像劇ではない。
『仮面ライダー555』は、仮面ライダーである主人公「乾巧」やその仲間達と、怪人(に望まない変貌を遂げてしまった)「木場勇治」やその仲間達という、主に2つの視点を交錯しながら描いていく構成であり、これは群像劇である。
映画『ラストマイル』も、爆破テロ事件を軸に、ショッピングサイト社員「舟渡エレナ」と「梨本孔」の2人の主人公、運送会社のスタッフ、配達員、商品到着を待つ家族、そして事件を追う刑事『MIU404』メンバー、解剖を担う『アンナチュラル』メンバーと、多数の視点が並行して描かれる、これまた見事な群像劇であった。
そして三谷幸喜作品は、そもそもが劇作家であるためか、群像劇構造のものが多い。とりわけ『THE有頂天ホテル』はわかりやすい。それこそ群像劇の一種として「グランド・ホテル形式」なる用語もある。各部屋の宿泊客、受付や厨房など多くの従業員、その他もろもろ様々な立場の登場人物を一つの空間の中で動かせるシチュエーションだ。
という感じで「複数人物の視点が同時並行して描かれる作品」のことを基本的に群像劇と呼ぶ、としていいだろう。
そして『ゼンブ・オブ・トーキョー』は、そのお手本のような作品であった。
※以下、直接的な展開に触れる都合ネタバレ注意。
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まずは『ゼンブ・オブ・トーキョー』のあらすじを公式サイトから引用しよう。
キーワードは「東京」「修学旅行」である。正直、この設定一つで見事な群像劇を成立させてしまったと言えるくらいである。
改めてまとめると、正源司陽子ちゃん演じる池園優里香を班長とした行動班5人は、昼食場所で意見が割れたことをきっかけにバラバラの別行動を取るも、再集合が上手くいかず、とりあえずスケジュール通り移動して落ち合おうとするが……という展開だ。
池園はミッチミチのスケジュールを組んだが、他の4人にはそれぞれ別の思惑があった。ゆえに池園を撒くことにして(かわいそう)、各々個人行動を取るのである。
池園がかわいそうなのはしょうがないとして、ここがまず「修学旅行」という設定を上手く利かせた展開である。
その動機の入り口として「(クラスで決められた)修学旅行の行動班」という限定的な条件が機能しているのだ。5人の仲が悪いわけではないようだが、しかし各々に別のクラスの友人や想いを寄せる異性など、「あっちを優先したい」というバラバラの別行動をする動機がある。無条件に一緒にいる関係性ではないからこそ、違う関係性へと向かう。
そして同時に「東京」であることも活きている。
東京でしか手に入らない推しキャラ限定グッズの確保に走る、石塚瑶季ちゃん演じる説田詩央里。
東京出身であるため観光名所にさほど興味のない(というクールな自分を演出したい)、小西夏菜実ちゃん演じる枡谷綾乃。
想いを寄せる別のクラスの男子を「修学旅行マジック」に期待してこっそり追う、藤嶌果歩ちゃん演じる羽川恵。
そして、奇しくも修学旅行で東京を訪れたこの日開催のオーディションに臨もうとする、渡辺莉奈ちゃん演じる桐井智紗。
もちろん池園は池園で、予定通り東京の全部を巡るために、班員とはぐれつつもスケジュール通りに一人で行動を進めていく。
「(修学旅行で)東京を訪れた」からこそ「この場所だけ/今だけ出来ることを」とそれぞれの動機が生まれて別行動に繋がっている。
こうして5人行動で始まった物語は、バラバラのストーリーラインに分かれていく。
最初から(無関係な複数視点が走り始める)群像劇なのではなく、1本の軸で導入したのち起承転結の「起」で「群像劇化していく」という、「とっつきやすさ」を備えて『ゼンブ・オブ・トーキョー』は始まるのだ。
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5つのストーリーラインが走り始めたことで、それぞれの関係者とも合流して、次第に違うドラマが発生してゆく。
説田は別クラスの推し活仲間と合流し、4箇所で手に入るグッズ確保のため、役割分担に取り掛かる。自分は池袋に、清水理央ちゃん演じる角村若菜は上野に、山下葉留花ちゃん演じる門林萌絵は渋谷に、宮地すみれちゃん演じる梁取茜は新宿に。
「果たしてグッズ(のための整理券)は無事手に入るのか」という目的達成に向けた可愛いサスペンスが発生し出し、更に人によって「クレーンゲームに成功できるのか」「新宿駅から抜け出せるのか」「せっかく手に入れたのに何故失くしてしまうのか」と枝分かれしていく。
恵は想い人を見つけたところで、恋のライバル・竹内希来里ちゃん演じる辻坂美緒と出くわしてしまう。バスケ部仕込みのフットワークに翻弄されつつ、互いに抜け駆けを許さぬまま、2人は上野まで彼のことを追いかける。
恋の行方は気になるが、ここの軸は「2人の掛け合い」である。何かある度やいのやいのと言い合う2人。果歩ちゃん・希来里ちゃんの抜群な演技力もあって、一連の会話は本作における大きな見所である。身を潜めつつも騒がしい2人は、さながらケイパー・コメディの様相を呈していく。
枡谷は平尾帆夏ちゃん演じる花里深雪と遭遇する。「都会っぽくてクールな枡谷に憧れている」と話す彼女を前に気を良くするが、そのさなか、更にバッタリ平岡海月ちゃん演じる満武夢華と再会してしまう。
彼女は枡谷と旧友であり、本当の姿をよく知る人物である。「東京出身のクールガール」で通したい枡谷は満武に協力を懇願し、奮闘する。行ったことも無い下北沢に向かってみたり、初めて入るカフェで「常連です」と言い張ってみたりと、取り繕うたびにボロが出る、正体隠しのコントと化していく。
智紗は序盤あまり登場せず、1人バスに乗り込んでどこへ向かうのか……と彼女の行動自体が一つの謎として後を引いていく。
そして池園は律儀に東京の街を巡っては、その場その場で写真を撮って記録していく。
彼女が一人寂しく行動する様子の表現として、街全体をどーんと映した中に池園がぽつんと歩いているという演出が多く、それ自体が本作の、文字通りの「観光映画」としての側面を牽引している。
逆に言えば、その画の中でも埋もれず、かつ一人ながらちょこちょこと動いたり喋っていたりの様子が漏れなくキュートな、正源司ちゃんの天性の存在感には思わず唸った。
5本に分かれた物語は、大げさに言えば別テーマ・別ジャンルのストーリーとして展開を深めていくのだ。
別の場所で、無関係な展開が同時並行していくこの構造、とても「群像劇」である。かつ、11人を無作為に動かすのではなく、ストーリーラインごとのチーム分けによる整理整頓もなし得ている。
これが「(修学旅行で)東京を訪れた」という大元の設定ひとつでここまで広がっているのだから見事だ。
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そして、群像劇のもう一つの面白み、別軸同士の「遭遇」が発生し始める。
池園はあちこちで仲間たちと遭遇している。恵や枡谷は通りすがりの彼女に見つからないよう身を隠したり、新宿でいつまでも迷っている茜は合流した若菜と共に助けられ、彼女がいたおかげで目的を達成出来た。また直接的な遭遇ではないが、池園の写真撮影にまつわる出来事が後にリフレインされ、クライマックスへの引き金となる。
恵と美緒は、想い人の前に上野担当・若菜が通りがかり、半ば盗み聞きした彼女の言葉に突き動かされる。
枡谷と行動していた花里と満武は、彼女のいないタイミングで池園と出くわし、その際のやり取りが、池園にとっても、枡谷にとっても重要な変化を起こすきっかけとなる。
変化を経た枡谷が池袋に訪れたところ、クレーンゲームが上手くいかず困り果てている説田と会い、その機会が満武の見せ場となった。
そして、ある出来事を発端に智紗と池園が再会するところから物語は動き始める。
こうした「遭遇」ひいては「ストーリーの交錯」を上手く作るのは容易ではない。別々のストーリーが同時に走ってるから面白いのに、その別々のストーリーを一瞬合流させなくてはいけないのだから。
その点『ゼンブ・オブ・トーキョー』はランドマークの多い「東京」を舞台にして、あちこちの場所に登場人物が散らばりつつ、時に移動するという流れで進んでゆく構成だ。
つまり「場所」そのものを各人のストーリー展開の軸に置くことで「同じ場所にいる者同士が出会う」という筋立てを生んでいる。そうして群像劇の面白みとしての「ストーリーの交錯」を成立させてしまったのだ。
もちろん、たまたま会うだけではない。出会った者がトラブルの助けになるのはもちろん、グッズを手に入れられなかったことで出た言葉が、聞いた者の恋に向かう勇気を奮い立たせたり、関係性が薄い相手の前だからこそ思わず本音をこぼし、それによって後に良い方向へと心を切り替えることが出来た。
ある種の意味の転換が発生するのだ。あっちの出来事が、こっちで形を変えたメッセージとして影響を受ける。
これこそ群像劇における「ストーリーの交錯」の本質である。
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そうしてストーリーは、クライマックスへと突き進んでいく。とにかくここのドライブ感が最高!
智紗のピンチに池園が仲間たちに電話をかけ、それぞれが「任せて!」と言わんばかりに顔を上げる、あの連続のシーン。各々目的を経たからこその全員の頼もしさが堪らないし、その想いの根底には友情があるのだから、本作はしっかりと青春友情物語として収束していってくれる。
当事者である智紗を含んだ11人が連携するホームアローン的な作戦は、「上階にあるカフェから階段で降りる」状況をはじめとした物理的高低差を活かした展開や、教師役・八嶋智人さんの名演も相まって、非常に映画的でこれまた最高なのだ。
(もったいないからとソフトクリームを一口ずつ食べる恵と美緒も最高。恋に破れた経験を共有したこの2人の関係はシスターフッドだ。)
そして全員が揃う海のシーンを経て、場面は冒頭と同じ、卒業式の日の教室に戻る。そう、この修学旅行はすべて回想なのだ。池園が音楽を再生するところから始まり、物語の終わりとしてヘッドフォンを外す。
後から思い返して愛おしむのも、青春の醍醐味である。「今だけ」だからこそ、その「今」を既に通り過ぎた「現在」を始まりと終わりに配置し、パタンと表紙を閉じるようにこの映画は終わる。
そうすれば、ただ過ぎ去るだけではない、いつでも反芻できる大切な思い出として、彼女たちの青春の時間を保存しておけるのだ。
もちろんそれは、演じた「彼女たち」の青春の時間と同義である。
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締め方がエモめになってしまいました。
「群像劇の教科書」「お手本」などと表現したが、それくらい、シンプルな設定と組み立てをもって鮮やかな群像劇が成立している。
より入り組んで、より細かな伏線回収があって、という群像作品もあるだろうが、それはそれで難解だったり、ごちゃごちゃしかねない。
それをまずもってわかりやすく、「グランド・トーキョー方式」に「青春」というフレーバーを添えて、喉越しの良い炭酸飲料のように仕上がった(それも90分以内に!)のが『ゼンブ・オブ・トーキョー』である。
11人の日向坂46メンバーをしっかり活かしたことも相まって、群像劇のお手本のような作品だなぁと思った次第でした。
以上。